『紫式部日記』研究の忘れもの
久保さんの『紫式部日記論』の第一部第一章「『紫式部日記』の成立-読み手の想定を手がかりに」は書き下ろしで、第一部の論攷執筆以後の重要な論文を検討しつつ、自説の研究史の補強ないし欠を補う説述となっている。
先にも記したとおり、消息体部分は、父・為時を読者として想定するのだが、この説を検討する際に、池田節子説の結論「共通の知識を有する身近な人」を援用する。また、4節「女子による家の記」で引用するのが、田渕句美子「『紫式部日記』の消息文-宮廷女房の意識」『女房文学史論-王朝から中世へ』岩波書店、2019年、初出2008年「『紫式部日記』の消息部分再考-『阿仏の文』から」である。田渕氏は、「現存の作品形態を超えて考える」『古典籍研究ガイダンス』笠間書院、2012年でも平易に自説を再説しておられる。
田渕説は阿仏尼の消息が宮廷女房となる娘に当てたもので、当時の女房の心得を記した点、『紫式部日記』の消息部分との親近性を指摘しつつ、この消息を娘・賢子にあてたものと推定し、結果的に萩谷説を追認したものである。ただし、田渕氏は、日記の成立過程に関して見解を異にすると強調し、現存『紫式部日記』には記されていない、『明月記』貞永二(1233)年三月二十日条の定家の娘民部卿典侍が幼少の頃に式子内親王から拝領した月次絵二巻を重点的に検証して、現存日記の首欠説を否定する理路を辿る。
曰く、
「このように、定家や式子内親王が持っていた『紫式部日記』は、少なくともこの五首を含む冒頭部分を持っていたと考えられます(笠間書院論文254頁)」。
「賢子の死後さほど時代を下らない時代に、日記に添付された消息を誰かが見出して、日記に続ける形で書写してしまった、というようなことかと想像されます(笠間書院論文252頁)」
この見解を従来説と比較すると、この成立過程の理路の前提となる、現存日記と異なるテクストの存在については、すでに萩谷『全注釈』(1974年)の「前『紫式部日記』-「ほぼ、初度の土御門第滞在中の、事実生起の当時もしくはその近い頃に執筆したもの」」に包摂され、久保論文でも「日記歌」については「紫式部の手になる独立した小品「日記的小家集」(69頁、初出1980年)」としているのだから、成立過程については、田渕氏を新見解とすることはできない。
しかしながら、この『明月記』定家自筆本に見える『紫日記』の脇に小字で「宜秋門院被書」とあることを指摘したのは重要で、これは従来の活字テクストには見られなかった新情報である。ただし、これも萩谷朴「『紫式部日記』の古筆切と写本」『古筆と源氏物語』八木書店、1991年の中で、『明月記』当該条を分析して、施主、絵画、詞書の筆者を以下のように推定した不明部分を埋める、微調整に留まるように思われる。
○『紫日記』『更級日記絵』
イ(編纂指示の施主)後堀川院 ロ(題目選定の撰者)承明門院(後鳥羽上皇妃在子)
ハ(題目清書の担当者)不詳なるも在子自身か ニ(絵画の筆者)不詳。或いは在子自身か。
ホ(詞書の筆者)通方 ヘ(題材、規模・構成)『紫日記』『更級日記』の二本立て 191頁
後鳥羽上皇妃・承明門院源在子はこの時、53歳。おなじく後鳥羽上皇中宮・宜秋門院九条任子(61歳)は老眼を理由に『源氏絵』詞書の染筆の要請を固辞したが、『紫日記』の染筆はしたのである。おそらく、萩谷説の「ハ(題目清書の担当者)不詳なるも在子自身か」を、田渕情報から、宜秋門院任子の「書かれ」た部分と推定するのが、わたくしには妥当かと思われる。つまり、この推定の不詳部分を補う情報を提供したのが田渕氏、と言うことになる。
この萩谷朴「『紫式部日記』の古筆切と写本」『古筆と源氏物語』八木書店、1991年は、参照度が極めて低いのは遺憾であるが、『紫式部日記』成立史・本文史に重要な見解が示されている、いわば、研究史の忘れものである。
以下、続く。
先にも記したとおり、消息体部分は、父・為時を読者として想定するのだが、この説を検討する際に、池田節子説の結論「共通の知識を有する身近な人」を援用する。また、4節「女子による家の記」で引用するのが、田渕句美子「『紫式部日記』の消息文-宮廷女房の意識」『女房文学史論-王朝から中世へ』岩波書店、2019年、初出2008年「『紫式部日記』の消息部分再考-『阿仏の文』から」である。田渕氏は、「現存の作品形態を超えて考える」『古典籍研究ガイダンス』笠間書院、2012年でも平易に自説を再説しておられる。
田渕説は阿仏尼の消息が宮廷女房となる娘に当てたもので、当時の女房の心得を記した点、『紫式部日記』の消息部分との親近性を指摘しつつ、この消息を娘・賢子にあてたものと推定し、結果的に萩谷説を追認したものである。ただし、田渕氏は、日記の成立過程に関して見解を異にすると強調し、現存『紫式部日記』には記されていない、『明月記』貞永二(1233)年三月二十日条の定家の娘民部卿典侍が幼少の頃に式子内親王から拝領した月次絵二巻を重点的に検証して、現存日記の首欠説を否定する理路を辿る。
曰く、
「このように、定家や式子内親王が持っていた『紫式部日記』は、少なくともこの五首を含む冒頭部分を持っていたと考えられます(笠間書院論文254頁)」。
「賢子の死後さほど時代を下らない時代に、日記に添付された消息を誰かが見出して、日記に続ける形で書写してしまった、というようなことかと想像されます(笠間書院論文252頁)」
この見解を従来説と比較すると、この成立過程の理路の前提となる、現存日記と異なるテクストの存在については、すでに萩谷『全注釈』(1974年)の「前『紫式部日記』-「ほぼ、初度の土御門第滞在中の、事実生起の当時もしくはその近い頃に執筆したもの」」に包摂され、久保論文でも「日記歌」については「紫式部の手になる独立した小品「日記的小家集」(69頁、初出1980年)」としているのだから、成立過程については、田渕氏を新見解とすることはできない。
しかしながら、この『明月記』定家自筆本に見える『紫日記』の脇に小字で「宜秋門院被書」とあることを指摘したのは重要で、これは従来の活字テクストには見られなかった新情報である。ただし、これも萩谷朴「『紫式部日記』の古筆切と写本」『古筆と源氏物語』八木書店、1991年の中で、『明月記』当該条を分析して、施主、絵画、詞書の筆者を以下のように推定した不明部分を埋める、微調整に留まるように思われる。
○『紫日記』『更級日記絵』
イ(編纂指示の施主)後堀川院 ロ(題目選定の撰者)承明門院(後鳥羽上皇妃在子)
ハ(題目清書の担当者)不詳なるも在子自身か ニ(絵画の筆者)不詳。或いは在子自身か。
ホ(詞書の筆者)通方 ヘ(題材、規模・構成)『紫日記』『更級日記』の二本立て 191頁
後鳥羽上皇妃・承明門院源在子はこの時、53歳。おなじく後鳥羽上皇中宮・宜秋門院九条任子(61歳)は老眼を理由に『源氏絵』詞書の染筆の要請を固辞したが、『紫日記』の染筆はしたのである。おそらく、萩谷説の「ハ(題目清書の担当者)不詳なるも在子自身か」を、田渕情報から、宜秋門院任子の「書かれ」た部分と推定するのが、わたくしには妥当かと思われる。つまり、この推定の不詳部分を補う情報を提供したのが田渕氏、と言うことになる。
この萩谷朴「『紫式部日記』の古筆切と写本」『古筆と源氏物語』八木書店、1991年は、参照度が極めて低いのは遺憾であるが、『紫式部日記』成立史・本文史に重要な見解が示されている、いわば、研究史の忘れものである。
以下、続く。
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