物語学の森 Blog版 現行『紫式部日記』の成立過程に関する覚書
FC2ブログ
現行『紫式部日記』の成立過程に関する覚書
2020-07-09 Thu 08:33
 先に書いたとおり、久保さんの大著『紫式部日記論』の研究史整理は、的確かつ有益であり、ぜひ一読を勧めたい。なかでも、複雑極まる現行『紫式部日記』の成立過程の諸説整理に学ぶことは多い。

 現行『紫式部日記』とは別に、外部徴証として、『栄華物語』「初花」巻、『陽明文庫本紫式部集・日記歌』、『明月記』貞永二年三月二十日条・式子内親王筆月次絵の「五月 紫式部日記暁景気」のテクストがあり、このことから、前『紫式部日記』を仮設した萩谷『全注釈』があり、これが現在では研究史の基点となる。曰く、

 『本紫式部日記』は、寛弘六年冬以降に、家記と庭訓という娘賢子のための遺書として構想され、追想的に著述されたものではあったが、五巻の日の強烈な印象に刺激されて執筆した『前紫式部日記』は、当時現在の日記であったかと思われる。そこにはなんらかの参考性も教訓性もなく、家集的日記ともいうべき体験的事実のありのままなる記述があったのみである。            
萩谷朴『全注釈』下巻、411頁
 ※『本紫式部日記』は「第二部消息体評論篇」

 寛弘五年五月六月の期間に限定された『前紫式部日記』の存在を想定し、その前後二分割と前半の散逸、後半の第三部挿入という考えに従うこととしたい。『紫式部集』乙本所収の「日記歌」や『栄華物語』初花巻の五巻の日の記事、さらに『明月記』にいう「五月暁景気」に該当する本文は、その『前紫式部日記』の、紫式部自身が切り捨てた前半部の本文を資料として用いたものと考えられる。          
 なお、『前紫式部日記』は『紫式部日記』第一部・第二部および第一部補遺等の本文が、事実生起の時点からは、ある程度遠ざかった時期に、過去を回想し、資料及び記憶を整理して、一個の作品としての主題を定め、構想を練って執筆したのとは違って、ほぼ、初度の土御門第滞在中の、事実生起の当時もしくはその近い頃に執筆したものかと思われる。もちろん、その『前紫式部日記』の後半部を分割して、現在位置に挿入したのは、第一部補遺も書き加えてのち、寛弘七年六月ごろのことであろう。  
  萩谷朴『全注釈』下巻、525~526頁

 ※「第一部補遺等」は「第三部『前紫式部日記』残欠本文」
 「第一部日記体記録篇」は『前紫式部日記』後半部。前半部は紫式部自身が切り捨てたものの、『紫式部集』乙本(陽明文庫本)所載日記歌、『栄華物語』初花巻の五巻の日の記事、『明月記』に見える式子内親王の月次絵「五月暁景気」として参照された。
 
 この第一部補遺も、おそらく寛弘七年六月頃に書き上げられたものと思われるが、その第一部補遺の前、第二部のあとに、『前紫式部日記』の後半部を分割挿入したのは、紫式部自身の処置であり、おそらく第一部補遺執筆直後の事であったかと思われる。偶然に、『前紫式部日記』の残欠本文を入手した後人のさかしらによる竄入処置によるものではあるまい。『紫式部日記絵詞』『紫式部集』乙本所載の日記歌も第一部、第二部、第三部、第一部補遺の順序に構成された現行証本と同じ配列・形態の本文を持つ証本に準拠して成立していることからして、現行本の形態は、早く平安時代末期に安定していたものと考えられるからである。 萩谷朴『全注釈』下巻、527頁
 
 この説については、最新の評価として、以下のような見解もあるが、「別の日記」「月次絵の題材」云々から、上記学説を直接検討したとは思えない説述である。

「日記」は『紫式部日記』ではなく、別の日記を想定する説もあるが、よく知られた有名な場面が月次絵の題材になっているはずで、その想定は考えにくい。
笹川博司「『紫式部日記』『紫式部集』の成立」『新世界』61頁

また、久保論文は、萩谷説に二点疑義を呈した。
『日記歌』のような家集を「日記」と規定すること、
『明月記』「暁景気」という「情趣を」『日記歌』の詠歌内容から「汲み取ることは出来ない」
これを克服するべく、、「原紫式部日記」を「日記的小家集」と捉え直して、以下のような見解を示している。

 式子内親王の月次絵「五月」に記載されたのは、家集(69)の詞書と歌とに相当するものであって、その依拠した資料は、定家本系家集増補者が依拠した同様の紫式部の手になる独立した小品「日記的小家集」であろうと考えるのである。なお、その資料は『栄華物語』の作者も依拠したと考えられること、左の対照表に示すとおりであって、この資料(「日記歌」追補者が依拠したものとは別種のもの)は比較的広く、流布・享受されていたものと思われる。
 第六章「『紫式部日記』首欠説批判」『紫式部日記論』武蔵野書院、2020年、初出1983年 116-118頁
-----------------
『紫式部日記』「献上本」説

 古く、現行日記と外部徴証の関係を考察し、「現存日記と献上日記」と規定した「献上本」説の始発が、
 南波浩「『紫式部日記』の変貌」『源氏物語と女流日記』武蔵野書院、1976年
である。また、
 「友人に送った日記本体を、後宮通信として「献上本」として書き直した」
  増田繁夫「紫式部日記の形態 成立と消息文の形態」「言語と文芸」1970年1月
 「友人に送った日記を「献上本」とした」 ※「土御門殿滞在記」の存在を想定
  原田敦子「消息文の執筆」『紫式部日記 紫式部集論考』2006年
とする「献上本」の研究史があった。
 ただし、注意すべきは、萩谷『全注釈』において、紫式部の職掌が「教養掛兼記録掛」と規定していることである。つまり、彰子後宮の記録を書くことが仕事であれば、当然、『紫日記』もまた、この記録の産物であることを示唆していることを確認しておきたい(上原「紫式部の生涯」『紫式部日記・集の新世界』34頁参照)。つまり、「献上本」というタームは確言していないものの、当然、こうした可能性を示唆していると言うことである。
 いうまでもなく、萩谷『全注釈』で、一条天皇に「献上」されるのは、寛弘五年十一月一日に作成された「御冊子」、すなわち、『源氏物語』であった。

 さらに増田氏は稿を重ね、下記推論を提出されたのであるが、萩谷説との整合性は図られておらず、紫式部が主家に提出した、いわゆる「献上本」を除けば、甚だしい論旨の重複が見られることに注意したい。

 何よりも現存日記の本文は、多くの損傷をこおむった伝本しか現存せず、失われてしまった部分も多くあるらしいので、それをもとにして成立事情を実証的に推定することはほとんど不可能なのである。
 しかしながら、それを承知で敢えて現存日記について、私は以下のような事情を想定する。すなわち、式部は女房として出仕して以来、宮仕日記あるいは備忘録のようなものをつけていた。そして道長など主家の命により、中宮彰子の初めての御産の経過を客観的に記した女房日記といったものを作成して提出した。これが「原紫式部日記」とでもいうべきものである。そこには現存日記には見えない土御門殿の法華三十講の記事などもふくまれていたかもしれない。これは主家に献上されたものであったから一般には流布しなかったが、源倫子の女房であった赤染衛門などには見ることができたので、それを赤染も書写してもっていたことも考えられる。栄華物語の資料になったのは、この「原紫式部日記」であろう。その後の寛弘七年ごろになって、式部の親しくしていた知人の娘などが宮仕することになり、中宮彰子の御産のときの様子や式部の女房生活などについての経過を求めてきた。それに応えて記したのが現存日記の祖本であったか、といった事情を想定するのである。式部はこれに中宮御産の経過を記していた「原紫式部日記」の記事だけでなく、自身の経験した中宮での女房生活における私的な感慨なども書き込んで、記録的日記とも消息文ともつかぬ形のものを書き上げて送った。現存日記には記録的な部分にも「侍り」が用いられているのもそのためであろう。これが後世に流布してゆく過程で本文の脱落などの損傷を受け、その結果として残ったものが現存の紫式部日記である。
  増田繁夫『評伝紫式部 世俗執着と出家願望』288頁

この「献上本」説は、この十年の間に以下のような説述も提出された。

・献上本は、主家から命じられて主家を主役に彰子の敦成親王出産という晴事を綴る女房日記で、現行の冒頭部を冒頭としていた。献上本は完成すると道長あるいは彰子に献上され、世に流布しなかった。
・私家本は献上本の写しに紫式部が大幅に手を加えて作成した、私的な書き物である。
・私家本はやがて流布し、『栄華物語』『日記歌』『明月記』は私家本に拠っている。
・私家本の冒頭は、転写が繰り返される中で脱落し、いかにも冒頭にふさわしい献上本冒頭が冒頭とされた。これが現行『紫式部日記』である。
 山本淳子『紫式部日記現代語訳付き』角川文庫ソフィア、2010年、「解説」341頁

 首部については、外部資料に見える寛弘五年五月五日を含む「日記」を、紫式部自身の作ではあるが、『紫式部日記』とは別の作品であったとする説もある。ただ別作品が『紫式部日記』に混入した経緯、さらに脱落して現形態となった経緯などについて、憶説を重ねなくてはならない難点がある。             
  山本淳子「現行『紫式部日記』の形態」『新世界』83頁

 いわゆる「二段階成立説」である。萩谷成立説を「憶説を重ねなくてはならない難点」があるとするが、「献上本」「私家本」から現行『紫式部日記』となった経緯の憶測は、アクロバティックな謎解きであって、「憶説を重ねなくてはならない難点」が、この二段階説にもある。
 くわえて、『紫式部日記絵詞』や『日記歌』が成立する以前の、平安末期までに現行『紫式部日記』が作成されるまでの過程として、萩谷説は、紫式部自撰、もしくは近親の他撰とするところ、二段階成立説の場合、「どのように」については説明がなされているが、いつ、誰が、このような編集をしたのかについては述べられていない。つまり、「転写が繰り返される中で脱落し、いかにも冒頭にふさわしい献上本」を冒頭に据え、これと逸文となった私家本が接続されて現行本となる経緯の詳細や、その接続部の具体的な解明は、注釈の記述からは分からない。
 ところが、残欠とされる「十一日の暁」以下の三つのテクストについては、紫式部自身が私家本作成の際に付加したと処理する点、かつ、消息体部分も、娘・賢子に当てて書かれたとする点、この二点に関しては萩谷『全注釈』説に遡源されることになる。

 たとえ、「私家本」冒頭部本文の脱落があったとしても、『栄華物語』参照本、『日記歌』本文等、平安末期までに流布していたことが明らかなテクストであるから、欠損があれば他本にこれを求めて補筆すればよいのだし、場合によっては「奥書」等にこのことを断る場合もあるから、書誌学的な常識からしても、これを是とするのはいかんともし難いように思われる。




別窓 | 源氏物語の巻 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<<『紫式部日記』研究の忘れもの | 物語学の森 Blog版 | 久保朝孝著『紫式部日記論』>>
 
 
 
 
 
 
  管理者だけに閲覧
 

トラックバックURL

FC2ブログユーザー専用トラックバックURLはこちら
| 物語学の森 Blog版 |