物語学の森 Blog版 久保朝孝著『紫式部日記論』
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久保朝孝著『紫式部日記論』
2020-06-27 Sat 07:57

 
 著者から拝領。ありがとうございます。前著『古典文学の愉悦-平安文学論攷』(2010年)から10年、還暦、古稀と人生の重要な時を刻む毎に単著をまとめておられ、この『紫式部日記論』は卒業論文以来のライフワークの集大成といえる入魂の書である。

 前著は書評を書いたので、未読の方はご覧いただくとして、本書にも引き継がれる基本方針は、初出以後に書かれた論攷についての加筆をしないことである。『紫式部日記』に関しては、1979年以降、成立過程論を軸に80年代前半の間に集中的に書き継がれた第一部の論攷が枢軸をなす、本書の核心部分である。リード文を引く。

『紫式部日記』という困難に挑む
 現存『紫式部日記』は、父藤原為時を第一の読み手とし、
娘紫式部によって記された「家の記」としての「仮名日記」に基づき、
内省的記述を付加して作成された
「別記」群の不完全な集成である(第一章)。

 第二部は日記文学研究者として名を為した90年以降、書肆の求めに応じて書かれた依頼原稿群である。企画立案の編者のテーマに添いつつ、久保さん独自の和歌論、風景論、土御門邸論、白詩受容論は高い到達点を示している。それぞれ長い時の間に、練りに練られ、熟成されて、珠玉の輝きを放っており、適宜、挿入される図版も論の理解に効果的に配されている。

 頂いてからすぐに読み始めると止まらなくなり、慌てて仕事に出て帰宅、食事も忘れて続きを読んだ。『紫式部日記』本来の魅力を饒舌ながら、もの柔らかに語る、久保さんの風貌を思い起こしながら読み耽った、という次第である。

 書き下ろしの第一章に関しては、先月刊行されたばかりの『知の遺産 紫式部日記、集の新世界』の各論文と共振し、両書を合わせ読まれることをお勧めするが、先に記したように、1979-1986年に書かれた論攷群であるために、『知の遺産』執筆者の名前が「索引」に見えるのは、献上本、私家本の二段階成立論に言及した書き下ろしの第一章のみであり、初学者にしてみれば、久保説をどう評価しつつ、研究史に定位するのかは、第三者、つまり、後進のわたくしたちの仕事ということになるのだろうか。

 この第一章では、池田節子著『紫式部日記を読み解く 源氏物語の作者が見た宮廷社会 』(2017年)に賛意を表しつつ引用し、日記の道長要請説を否定し、父・為時邸宅に遺された家の記として、父を想定して書かれたという理路を展開する。池田説は、娘・賢子のために書かれたとする萩谷説に関して、母娘であっても、「娘だから他人への批判を忌憚なく書ける」わけではないという疑義を呈して「共通する知識を有する身近な人」を仮設するのだが、この家の記読者説は、否定する論拠が、時にこれを肯定する論拠ともなるようにわたくしには思われる。というのも、この最も身近な近親は、女房として出仕する娘・賢子がもっともふさわしいからである。また、久保説の父・為時読者説も、道長との交渉をもってまわった言い回しの「水鶏の歌」を書き記す妙齢の娘の意図を、わたくしは、いかんとも想定しがたいと思うのだが、いかかだろうか。

 拙稿「紫式部の生涯」にも記したことだが、紫式部の女房の職掌は、無任所ということになる。厳密には、彰子の楽府進講以外具体的に何をしたという記述は書かれていない。自身の日記だから書かれていないのかも知れないが、「上人十七人」とある内裏女房と「四十人ばかり」の彰子女房、総勢五十余名もれなく総登場の、現行『紫式部日記』である。ともあれ、全員を書き残してあるところに、一条天皇の皇子生誕儀礼の記録的な性格は否定できないように思われてならない。
 また、当時の貴族の日記のあり方に、三橋正の論の核心部分(紀要抄録-本文ではないので注意)を引用してある。この論文を病床で書いていた最晩年の故人が、漢文和文を包括的に捉えた日記文学史を構想していたことは『古記録文化論』(2015年)の「『古記録文化論』解題」に記したので、興味のある方にはご一読願いたい。
 
 以後、続稿予定。
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