物語学の森 Blog版 『小右記』の「皇太后宮女房」とは。
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『小右記』の「皇太后宮女房」とは。
2019-12-22 Sun 08:22
『小右記』寛仁四年(1020)九月十一日条
十一日、已未。早旦。前帥(隆家)示し送りて云はく『昨日主上瘧病発り給ふ。上達部多く不参の事、入道(道長)咎めらるるの間、四条大納言(公任)参入するに、罵辱の御詞敢へてすべからずに云はく、『已に謁無し』』と云々。帥驚き乍ら子夜参入。太后宮(彰子)女房罷り出づるに相遇し、四条大納言に示し送りて云はく『皇太后宮大夫道綱、今暁逝去の由、頼光(源)邊所従り之を聞く』。人を遣はし了んぬ。 

 「紫式部の生涯」は編集の先生の調整指示を頂き、推敲中。そんなところに、NHKBSの「紫式部の健康診断」で倉本一宏氏が紫式部が60歳くらいの長寿であったと『小右記』の万寿四年(1027)十二月十七日条「女院女房」の影印を示して説明していたのを見て吃驚。倉本氏は『紫式部と平安の都』吉川弘文館、2014年では、紫式部の没年の「学説」を、岡一男の長和三年(1014)から角田文衛の長元四年(1031)まで紹介されて自説は控えられていたが、ここで新説を披露されたからである。ただし、倉本氏は同書で今井源衛氏の没年説を1014年としているが、これは旧版『人物叢書』(吉川弘文館)の見解であり、今井氏は後年、新版では寛仁三年(1019年)没年説に改めているから注意を要する。

 そこで、『小右記』を再調査してみたところ、女院は前年正月剃髪して上東門院と号した彰子だから、確かに側近「女房」は紫式部の可能性はある。ただし、『兼盛集逸文家集』の詠作年次との整合性を考えると、万寿二年(1025)八月五日、親仁親王(後冷泉天皇、母・嬉子)の誕生に伴い、娘・賢子が乳母となる「大宮の御方(彰子)の紫式部が女の越後の弁」(『栄華物語』巻二六)から、この時点で紫式部はすでに卒去しているとする見解とのすりあわせが必要と云うことだ。

 上記の『小右記』は寛仁四年(1020)の記事だが、後一条天皇の瘧病発病にも関わらず、側近達が馳せ参せずに入道・道長が公任を前に激怒した話と、道綱死亡説を頼光周辺から得た女房の話を公任から聞きつけた記主・実資が、人を遣わせた話が綴られている。道綱は重篤ではあったが、いったん持ち直し、翌月十五日に薨じている。そしてこの情報をもたらした女房の存在、これはかの人なのだろうか。
この論文を収めた論集は来年五月あたりには公刊される見込み。乞うご期待。


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