物語学の森 Blog版 秀頼討伐古文書は偽文書か。
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秀頼討伐古文書は偽文書か。
2019-10-04 Fri 08:04
 軽井沢宿本陣佐藤家文書95「秀頼討伐文書」はもうひとつ旧家にも同一内容の古文書が蔵されていることがこの夏、判明したのだが、これを大学私家版教科書の一節に掲載したところ、足立区嘱託研究員でもある、法人理事長氏から、佐久郡士三十五郷六拾九郷士のうち、「御影新田」の「新田」が足立区の「足立新田」に同じく、後代の地名ではないかとの指摘があった。であるからこそ、『戦国遺文』『信濃史料』は未掲載、不採用としたのではないか、という指摘である。
 調べてみると、この文書(慶長19年(1614))から16年後に新田開発され、天領となった由。すでに地名があったのかも知れないが、疑問符がついたことを記しておく。この当時の郷士は「小林条太郎峯尾」とあるが、のちに柏木小右衛門となった由である。識者の御教示を乞う。なお、教科書は若干残部があります。

御影新田 『国史大辞典』
みかげしんでん
江戸時代前期、信濃国佐久郡(長野県小諸市)に開発された新田村。慶安三年(一六五〇)ころに、戦国土豪の系譜を引く柏木小右衛門が中心となって浅間山麓より長大な用水路(上堰が約二八キロ、下堰が約三六キロ、両堰の合流点より御影新田に到達するまでが約八キロ)を開鑿してこの新田が開発された。ただし上堰は、寛永十七年(一六四〇)ころに、佐久郡小田井(おたい)・前田原・長戸呂の三ヵ村が開鑿したものを拡張・延長したとされる。新田は、当時廃村となっていた下曾根村の跡地を中心として開発したとされるが、下曾根村については未詳。開発については、小諸藩の命令によるとする史料と、小右衛門の出願によるとする史料がある。村名についても、藩の「おかげ」に由来するという史料と、新田に富士山の「御影」が写ったことに由来するという史料がある。いずれにしても、こうして八百三十石余(田畑合わせて八十五町四反余)の新田が誕生した。その後、柏木家は、種々の特権を与えられ、「新田開発人」として村落に君臨した。→柏木小右衛門(かしわぎこえもん)
[参考文献]
小諸市役所編『御影用水資料』、国立史料館編『信濃国佐久郡御影新田村柏木家文書目録』(『史料館所蔵史料目録』四五)、矢ヶ崎賢次『土を拓ける人々』、丸岡秀子『女の今日』、角田脩助『一農人のあゆみ八十二年』、大石慎三郎『近世村落の構造と家制度』、北佐久郡役所編『北佐久郡志』、北佐久郡志編纂会編『北佐久郡志』二、『長野県史』通史編四、柏木常民『御影用水と千ヶ滝土地改良区―思い出あれこれ―』 (斎藤 洋一)
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