物語学の森 Blog版 『紫式部日記』「我が紫」説の帰趨、そして『源氏物語』巻名の成立について
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『紫式部日記』「我が紫」説の帰趨、そして『源氏物語』巻名の成立について
2018-11-07 Wed 10:46
 古典の日以降、制定の根拠となる『紫式部日記』の解釈が話題となっている。その「わかむらさき」解釈の帰趨についての覚え書。 

黒川本『紫式部日記』-渋谷榮一先生の翻刻による。

か月のすんのくるを大将はをち給へとれい
ことならひの千とせ万代にてすきぬ左衛門
のかみあなかしこ此のわたりわかむらさきや
さふらふとうかゝいたまふ源氏にかかるへき人
もみえ給はぬにかのうへはまいていかてものした
まはんときゝゐたり三位のすけかはらけ
とれなとあるに侍従の宰相たちて内のおとゝ
のおはすれはしもよりいてたるをみて
おとゝゑいなきしたまふ権中納言すみのま
のはしらもとによりて兵部のをもとひこし」38オ

校訂本文

 …盃の順の来るを、大将はおぢたまへど、例のことなしびの、「千歳万代」にて過ぎぬ。
 左衛門督、
 「あなかしこ、このわたりに我が紫やさぶらふ。」
と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。…

 ※傍線部本文は、『紫式部日記絵詞』によって校訂する萩谷朴説を踏襲した渋谷先生校訂本文。渋谷先生の方針は、以下の通り。
【校訂付記】
1 底本の宮内庁書陵部蔵「黒川本紫日記」は後世の写本であるため、それよりも遡る逸文資料の国宝『紫式部日記絵詞』(鎌倉期)及び伝三条実重筆『日記切』(室町期)が存在する箇所では、原則として、その本文を尊重し校訂した。
2 萩谷朴著『紫式部日記全注釈 上下』の考証を尊重し、受け入れ難い説以外は、原則として、それに従って校訂した。

 ※「わかむらさき」の渋谷先生の校訂案は「若紫」。萩谷説の詳細は、『紫式部日記全注釈』下巻、角川書店、1971年参照。なお、渋谷氏の電子データは、クレジットがあれば使用可とのことが凡例に明記されてあるが、遺憾ながら、クレジットなく公刊されている本もある由である。

  以下、「我が紫」説に言及する代表的な論考をふたつ、さらに愚見を付記する。

野口元大「源氏物語成立前後」『王朝仮名文学論攷』風間書房、2002年、初出1992年

 ここでは、「わかむらさき」について意見が分かれている。「若紫」説と「我が紫」説とである。『源氏物語』本文には、「若紫」の呼称はなく、巻名に見えるだけである。そうすると、「若紫」説では、「若紫」巻に見える女君の意味となるが、やや迂遠な気味がある。…
 この場合の公任の言動は、わたしも『源氏物語』を読んでいますよ、の意味を込めて一種の表敬訪問だったと解してよい。したがって、皮肉や無礼は彼の意図したところではなかったであろう。そういう彼の気持ちを忖度すれば、ここは次のように解釈したい。彼は親愛感から「我が紫」と呼び掛けようとしたのだが、瞬間それは相手にとっては無礼に響きかねないことに気づき、とっさに「若紫」の懸詞としてそれを緩和しようとした。具体的には「我が紫」のアクセントで、「若紫」と発音したのである。
 この「かの上」という呼び方は、この時期には、物語が「若紫」だけでなくかなり後まで、少なくとも第一部まで成立していたことを意味する。そして公任もそこまで読んでいることを当然視している口吻とも思える。こういう反撥めいた口調を弄しながらも、それを日記に書き込んでいる紫式部は、やはり晴れがましさを感ぜずにはいられなかったのだろうし、同時にこういう男性読者の見識に対しても、引けは取りたくないという思いをも強くしたことであろう。253-254頁

高橋亨「物語作者のテクストとしての紫式部日記」『源氏物語の詩学-かな物語の生成と心的遠近法』名古屋大学出版会、2007年、初出2002年

「わかむらさき」を「若紫」と解する説が一般的で、それならば、老いを意識している紫式部をからかったことにもなるが、「源氏」に似るべき人も見あたらないのに、「かの上」はどうしておられようかと、黙って聞いていたと記す。萩谷朴説のように、「我が紫」とみたほうが、公任が自分を光源氏に見立てて呼び掛けたことが、「かの上」という受け方と呼応して、より明確となる。「若紫」と「我が紫」の掛詞とみることも可能であろう。527頁

上原作和・廣田收校注訳『紫式部と和歌の世界-一冊で読む紫式部家集-新訂版』武蔵野書院、2012年
○わが紫-『全注釈』「我が紫」に従う。「若紫」は巻名に牽制されたものであろう。巻名の成立はこれを裏付ける資料が『源氏物語絵巻』を遡れない。171頁

 ちなみに『源氏物語』の最も早い他者の享受は菅原孝標娘の『更級日記』治安元年(1021)の記事であり、ここでは「一の巻」、「光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやう」としかない。つまり、現存の巻名ではなく、巻の通し番号のついた写本群であったことになる。したがって、「若紫」支持派の諸氏は、まず、巻名が寛弘五年十一月朔日までに作者によって命名されていたことを証明することが必要となるはずだ。

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