物語学の森 Blog版 今井源衛「論文は公器である」(1960年)の今日的意味
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今井源衛「論文は公器である」(1960年)の今日的意味
2018-08-25 Sat 04:38
 どうにもつまらぬことに付き合って、しかしながら、わたくし的に見れば、今はやりの悪質タックルをわたくし自身が受けたような状況、とも言える事態が発生。その発端が、研究者は、公人か私人か、という初歩的な考え方の相違から。 このことに関連して、今井源衛「論文は公器である」『国文学やぶにらみ』(和泉書院、1981年、初出1960年)を、30年ぶりに読み返す。論文が公器であるなら、発表された時点で著者が私人ではあり得ない、という論理が成り立つ。末尾には以下のようにある。

 親も兄弟もないのが学問の世界だとすれば、私室の会話を論文に持ち込むのは、鼻毛を読まれるのがおちであろう。学問上の党派を結ぶのは差し支えないどころか、むしろ奨励すべきことであるが、それを論理化しないまま、ずるずるべったりと論文中にまで持ち込むのは戒むべきだ。後輩を世に出したり、知友を推薦するには、別の方法があるはずである。
 ともかく学術論文は公器であり、それは書かれた瞬間から、筆者の手を離れる。純粋な論理性だけが論文の生命で、それ以下のものは、その生命を失うばかりだ。    83頁

  論文には、本来なら「氏」のないほうが、「より客観的な記述方法だと思う」けれども、「つまらぬ誤解を避ける為には、暫く『氏』を付けてお茶を濁すことも方便というものであろうか」と記し、その枕に「○○博士」「○○先生」と書くのも本来は不要、ともあれ、「純粋な論理性だけが論文の生命」だと結んでいる。初出は51歳、「解釈と鑑賞」。これを読んで敬称は付けないで来たが、やはり「生意気」に思われたかもしれないとは思う。
 
 もう一点、注目すべきは、「新制のドクターコースを出て論文を提出すれば、なれるはずだった新制文学博士が、今もって一人も出現しないのは、審査する側の博士たちとおなじ「博士」を号するには、あまりに内容が違いすぎるわけで、いくら頭では制度の違いを理解しようとしても、腹の底までは割り切ることのできない「博士」たちの歴史があるからだろう」とあること。本にまとめられた1981(昭和56年)、とうほうはまだ大学生でもなかったが、大学院生時代でも博士は確かに稀少な存在であった。今井先生御自身は、1971年、九州大学から『王朝文学の研究』で学位を取得しておられる。

 昭和30年代以降、日本文学の論文博士(いわゆる乙)は、東北大学と東洋大学が多い。とくに前者は女性研究者が、後者はほぼ男性。リストのなかから摘出。

東北大学
久曽神昇『古今和歌集成立論』1962年
渥美かをる『平家物語の基礎的研究』1962年
小野村洋子『源氏物語の精神的基底- 「あはれ」と「宿世」の内面的深化』1968年、乙第857号
河野多麻『うつほ物語伝本の研究』1975年、乙第1932号

東洋大学
吉田幸一『和泉式部日記の基礎研究』1961年
小松茂美『後撰和歌集-校本と研究』1961年
池田勉『源氏物語の制作過程に関する研究』1961年
石田穣二『源氏物語論集』1974年、 乙第26号
坂本共展『源氏物語構成論』1997年、乙第92号

 いずれも書架に並んでいる名著で、確かに、これぞ「博士論文」と思わざるを得ないものばかり。まさに「公器」と呼ぶに相応しい。やはり、今井源衛「論文は公器である」(1960年)は、今日的でも普遍の意味を持っているものと思われる。

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 以下付記

 今井源衛先生(1919 - 2004年)には、著書をお送りした際の礼状を頂いたことと、1994年の帚木巻の新編全集の本文校訂に関する学会発表後の懇親会の挨拶で、「今日の私どもの戦は完敗であります。では乾杯」とユーモアを交えて発表内容を認めてくださったことが想起される(結局自慢話)。
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