物語学の森 Blog版 昭和3年11月16日 五節の舞姫一覧
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昭和3年11月16日 五節の舞姫一覧
2018-05-12 Sat 07:42
 来年行われる大嘗祭。関連行事として行われるであろう豊明節会(とよあかりのせちえ)のクライマックスはやはり「五節の舞」。清少納言、紫式部も、この行事に関する記述は詳細で、特に舞姫に関しては、約10分間の舞による肉体的消耗の激しさに筆が及んでいることは、よく知られている。

三巻本『枕草子』85段 正暦4年11月、中宮定子が五節の舞姫を選出した年の、最終日15日・辰の日の豊明節会の様子を記したくだりは以下のとおり。

○ 果ての日も、負いかづきいでも騒がず。

『紫式部日記』寛弘5年(1008)11月21日条
○ 舞姫どもの、<いかに苦しからむ>と見ゆるに、尾張守のぞ、心地悪しがりて往ぬる、夢のやうに見ゆるものかな。こと果てて下りさせたまひぬ。

 これに関しては解釈が定まらず、萩谷先生も繰り返し昭和の五節の舞姫たちの例を挙げて、これを考証している。もちろん、同時代史料『江家次第』『実頼公記』『西宮記』『権記』『小右記』等の、五節の舞姫たちが舞終わることが出来なかった例を考証の根拠とし、その傍証としての言及である。

萩谷朴『枕草子解釈の諸問題』新典社、1991年、初出「國文學: 解釈と敎材の研究」、第4号 學燈社、1959年4月
46-57ページ
現に筆者は昭和三年の御大典当時、まだ小学校の五年生であったが、大甞会豊明節会に奉仕した舞姫五人の中、無事大任を果したものはわずかに 一 人、五人中四人までが卒倒したという風評を記憶している。なんでも衣裳が四貫目(一五キログラム)もあるのでは、どんなに辛かろうと同情したことであった。

萩谷朴『本文解釈学』 萩谷朴 河出書房新社、1994年

24 ページ
昭和三年、昭和天皇ご即位の大典が京都御所で行われた時の新聞記事である。私はまだ小学校五年生であったが、大甞会豊明節会に舞姫を奉仕した華族の令嬢五人の中、四人までが卒倒して、無事大任を果し得た者は僅かに一人(錦小路子爵家令嬢(×正しくは妻))、他の四人は悉く卒倒したという報道であった。何でも衣装が四貫目(一五キログラム)もあるのでは、若い女性にとって、どんなに辛かろうと子ども心に同情した記憶が、何時までも心に残っていた。

586 ページ
昭和 三 年、昭和天皇ご即位の大典に因んで挙行された大甞会豊明節会に舞姫を奉仕した華族の令嬢五人の中、四人までが卒倒して、無事大任を果得たのは僅かに一人と新聞記事にあった。昭和二年東大国文科卒業の錦小路頼孝子爵の妹君(×正しくは妻)であったと記憶している。幼少菜な王朝の姫君とは違って、高女卒業の成人であったが、平素着慣れない装束の重量が四貫(一五キログラム)も在ったのでは無理からぬことと、小学校五年生の子ども心に同情したことが記憶に長くとどまっていて、『枕草子』『紫式部日記』の本文解釈に役立つのだから面白い。

昭和3年11月16日 五節の舞姫一覧 ○は実際に豊明節会で舞を務めた五人の女性 

○菊亭福子 17歳 父・菊亭脩季 母・中山章子(侯爵 中山輔親の再従姉)(京都薬学専門学校教授・子爵・藤井兼諠の妻、一説に鳥居忠博の妻)京都府立第二高等女学校卒業
○日野西兌子 20歳 父・子爵・宮中顧問官 日野西資博(1870年生)
○油小路昊子 24歳 父・伯爵・油小路隆成(子爵 錦小路頼孝の妻)
○藤谷直子  25歳 父・子爵 藤谷為寛 御子左家 二百石
町尻信子 26歳 父・子爵 町尻量弘 広島市第一高額納税者・島本幸助の妻 京都府立第一高等女学校卒業
植松信子 21歳 父・子爵 植松雅徳 村上源家 百三十石 京都府立第二高等女学校・京都府立女子専門学校卒業 国漢中等教員免許状取得 今西清之助の妻
○難波綾子 24歳 父・子爵 難波宗美 花山院家三百石
冷泉須賀子 22歳 父・子爵 冷泉為系 上冷泉家 御子左家三百石

 当時の『朝日新聞』『読売新聞』には、舞姫が卒倒した記事は見あたらないが、「油小路昊子 父・伯爵・油小路隆成(子爵 錦小路頼孝の妻)」の存在は確かで、考証本文に「錦小路頼孝の(×)妹君」とある微妙なミスはあるものの、萩谷先生の記す「風聞」「新聞記事」は確かに存在したことは、確かであろうとは思われる。

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