物語学の森 Blog版 散位時代の藤原為時は困窮していたか。
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散位時代の藤原為時は困窮していたか。
2017-11-12 Sun 08:51
   宇治十帖と作者の論文はいちおう擱筆。紙幅の関係でカットした引用と覚え書き。紫式部が源倫子家乳房として出仕することになる前提として、以下のようにある。

 為時は花山天皇の時代に蔵人式部丞に任じられ、天皇の近侍になる光栄に浴したが、まもなく花山天皇が藤原兼家一門の謀略に掛かって、在位二年間で退位するや、その後十年の長きにわたって散位のまま放置された。その間、文人として尊重されたが、無官となれば職田を失い、俸給は従五位下の位階につく位田八町(『令義解』)と若干の位禄・季禄が主たるもので、祖父兼輔の遺産があったから日常生活に不自由はなかったにしても、貴族の体面を保つためには経済的な余裕などあまりなかったであろう。当時の申し文には、たとえば、源順が散位十一年後、天元三年(九八〇)正月に提出した文章に、「当干年老家貧歎深愁切」(『本朝文粋』第六)とあるような貧困を歎く文句が多く、為時自身も、これよりのち、二度目の散位時代に、「門閑元謁客」(『本朝麗藻((×草))』巻下)と題する詩を賦して、身の不遇と邸宅の荒廃を嘆いている。表現に誇張があったとしても、それが説得力を持つには誇張するに足る実質がなくてはなるまい。『江談抄』第五・詩事に伝える、大江匡衡が藤原行成のもとに送った書には、為時を含む六人の詩人の名を挙げて、「故主甘貧」と記されているが、十年間にわたる散位時代は、官吏為時にとって貧に甘んじて風流韻事に遊ぶには、あまりにも長すぎたと思われる。

 徳満澄雄「紫式部は鷹司殿倫子の女房であったか」「語文研究」六二号、九州大学国語国文学会、1986年12月
 
 正一位の位田八十町96ヘクタール、従五位の八町は9.6ヘクタール。女はその2/3。その「位田の耕営方法は、多くは班田農民の賃租(土地の借耕)によったと思われるが、その場合、田主の純収益は、賃租の地子(穫稲(かくとう)の20%)から租(穫稲の3%)を差し引いた残り、すなわち穫稲の17%であった(村山光一)」「日本大百科全書」 

  『延喜式』「禄物価法」では、下記のように規定されている。
 
 絁=稲30束、綿一屯=稲3束、鍬一本=稲3束、田地一反=稲72束。
 稲一束は現代の米二升に相当 (現代の米二升(3㎏)は800円換算)

 ちなみに従五位の官僚は稲8973束。従五位の年収は14,356,800円(山口博氏も従五位の山上憶良で1.436万円とする『日本人の給与明細 古典で読み説く物価事情』角川ソフィア文庫、2015年)。ちなみに、正一位は4億5千万円。正六位は680万円。従五位下、散位時代の為時の場合は、職田(1.6町、184万円)がないので、満額ではないが、それでも約1,291万円

 したがって、「為時は「困窮」の生活とは必ずしも云えないように思われる」と書いたものの、この部分は没。
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