物語学の森 Blog版 北昤吉と佐渡人脈
北昤吉と佐渡人脈
2017-10-09 Mon 08:26
北玲吉1921ドイツハイデルブルグ左・大正末年頃の名刺・右・ドイツハイデルベルグ留学中(1921)の写真

 先日紹介した、もうひとりの佐渡の女性「田中とみ」。昭和18年の『大川周明日記』にも登場する行動する女性。大川日記によると、田中とは二十年来の知己と記しているので、大正末年には面識を得ていたものと推察される。この大川と田中とみを結びつけるのは、やはり佐渡両津夷出身の北一輝(1883-1837)、そして弟の北昤吉(1885-1861)。226事件で刑死した北一輝について、大川は以下のように回想している(北一輝君を憶ふ)。

北君は私にも二つの形見の品を遺してくれた。その一つは白の詰襟の夏服で、上海で私との初対面の思ひ出をこめた贈物である。大正八年の夏のこと、吾灯は満川亀太郎君の首唱によりて猶存社を組織し、平賀磯次郎、山田丑太郎何盛三の諸君を熱心な同志とし、牛込南町に本部を構へて維新運動に心を砕いていた。そして満川君の発議により、当時上海に居た北君を東京に迎へて猶存社の同人にしたいと言ふことになり、然らば誰れが上海に往くかという段になって、私が其選に当つた。この事が決つたのは大正八年八月八日であつた。八の字が三つ重なるとは甚だ縁起が良いと、満川君は大いに欣び、この芽出度い日付で私を文学士大川周明兄として北君に紹介する一書を認めた。そして何盛三君が愛蔵の書籍を売つて、私の旅費として金百円を調達してくれた。かやうにして事が決つたのは八日であつたが、事を極めて秘密に附する必要があり、その上旅費も貧弱であつたので適当な便船を探すのに骨が折れ、愈π肥前唐津で乗船することになつたのは八月十六日であつた。(略)処刑直前に北君が私に遺した形見の第二の品は、実に巻紙に大書した『大魔王観音』の五字である。北君がこれを書く時、その中に千情万緒が往来したことであろう。ひとつ大川にからかつてやれと言ふ気持もあつたらう。また私が魔王々々と呼んで北君と水魚のやうに濃かに交って居た頃のことを思ひめぐらしたことであらう。また今の大川には大魔王観音の意味が本当に判る筈だと微笑したことでもあらう。いずれにせよ死刑を明日に控えてのかのやうな遊戯三昧は、驚き入つた心境と言はねばならぬ。

実弟の北昤吉は、兄と同じく早稲田大学に学び、自らは高等教育の基盤整備に心血を注ぎ、草創期の大東文化学院教授のかたわら、帝国美術学校(武蔵野美術大学)、多摩美術学校(多摩美術大学)という、美大の双璧の設立に関与している。のちに政治家に転身、兄が刑死する発端となる226事件の一年前の1936年第19回衆議院議員総選挙で新潟1区から無所属で当選し、政治家へと転身した(同じ一区に最晩年の山本悌二郎も立憲政友会から出馬して当選)。当選後立憲民政党に入党、公職追放の後、自由民主党鳩山派所属議員。若き日の兄とは疎遠であったが、戦後に兄の「国体論」を出版するなど、その思想を肯定的に評価している。

 婦人運動家「田中とみ」は、夫亮一が新潟県議会議員だったこともあり、佐渡相川出身の代議士・山本悌二郎とも知遇を得ている。北兄弟の母が新穂村出身の本間リクであったことから、同村出身の誼、くわえて兄・一輝は眼病長期治療で母の里・新穂村に滞在していたこともあり、北兄弟からさらに大川周明へと縁故を拡げていったように思われる。この件、さらに調査予定。

○井上裕「私論 北一輝」

○「哲学者・言論人・政治家 北れい吉

○「井戸土塀政治家本間一松の生涯

○古沢襄「北一輝 佐渡・本間人脈からみた研究」   


 
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