物語学の森 Blog版 もうひとりの佐渡女性・田中とみ
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もうひとりの佐渡女性・田中とみ
2017-09-29 Fri 00:01
田中とみ

1933年(昭和8年)ころ、紀州徳川家南葵文庫主事を務めた文献学者の高木文のところに佐渡出身の政治家山本悌二郎、前田米蔵、山東誠三郎らの紹介状を持って、佐渡の「田中とみ」なる女性が『源氏物語』の写本を売りたいと尋ねてきたという( 高木文「賜架書屋随筆」『書物展望』第5巻第8号(通号第50号)、書物展望社、1935年(昭和10年)8月、p. 126-129)。このことは拙文「佐渡時代の大島本『源氏物語』と桃園文庫」(『光源氏物語傳來史』武蔵野書院、2011年(平成23年)11月、p…142-161)に、金井村貝塚田中家に同居していた「とみ」氏と推定したところ。この田中家は、江戸時代、佐渡に奉行代官として越左してきた相川の田中氏ではなく、千利休四男宗弘一統として、弘治二年(1556)、織田信長、豊臣秀吉の時代、佐渡国仲にやってきた田中氏であるとされる(拙著『光源氏物語傳來史』参照)。

 ところが、最近、もうひとり、貝塚の隣村・新穂村にも、婦人運動家の田中とみ氏(旧新穂村武井、旧姓・田辺、1883-1960)がいたことが判明。夫・亮一(旧新穂村舟下 ?-1937?)は明治大正時代の県会議員。こちらのとみは、昭和初頭、蔵書・田中文庫(全3000冊)を新穂図書館に寄贈したという『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年)。現在も佐渡市立図書館新穂図書室に、芳賀矢一・佐佐木信綱『謡曲大観』(博文館、1914年(大正3年))など、大正時代の刊行物の蔵書が確認される。また、田中文庫に関しては『新穂村史』「資料編」「4、村内の近世及び近代(明治年代)の蔵書調」に、新穂村内の漢籍・和書では田中亮一氏の蔵書が多くを占めることが特記されている。ただし、田中文庫は漢籍が多くを占め、『源氏物語』は見えない。潟上・土屋一丸家蔵書に『源氏無外題』(元和元年)三冊が見えるのみである。

『新穂村史』
 田中とみ 1883-1960、新穂武井生れで舟下田中亮一に14才で嫁したという。資産があり、主人は温良であり、子宝に恵れなかったので婦人会運動に一生を捧げたといってもよいであろう。明治39年婦人会組織の時も同村の後藤キミ、大野河野セツ、長畝佐藤等と共に発起者であり、大正7年(1918)35才で副会長となり、同13年会長、大正15年には佐渡郡婦人団体の副会長に当選、後婦人会の県連合会の役員等を歴任した。そのことよりも「風俗改良」に対する熱意と実行力は大きかった。尤も生活改善節約運動は近世にも盛んであったが、実効は少なく明治-大正と持ちこされていた。田中は大正14年嫁の配り物は全廃と「配り物はやるな、受けとるな」と会員全員に署名捺印させたという。「田中の世話やきばばあ、子供がないから肩が軽い」と一般から悪口を言われたが負けずに運動をつづけた(『新穂村史』(昭和51年刊)。

 こちらの田中とみは、大川周明(1886-1957)日記にも登場。大川は、『大川周明日記明治36年--昭和24年』( 大川周明顕彰会、岩崎学術出版社, 1986年)に、田中亮一子孫の来訪と、とみからの付け届けを記していた。

  昭和18年10月18日 月
二十年以前に知合へる佐渡田中亮一氏の子及び孫来訪。
 昭和18年10月24日 日 
佐渡田中トミ女史より味附わかけ(ママ)罐入恵送。

 ただし、「田中亮一氏の子及び孫」とあるものの、二人に実子はないので、養子が大川周明を尋ねてきたことになる。

 とりわけ、田中亮一家の蔵書の整理時期と、大島本の売却交渉時期が重なることは重要。ただし、田中亮一が新穂村舟下の人で、没年は推定(1937年)とあり、詩文に優れたことが知られるのみで、戦国時代の吉見正頼から昭和佐渡時代までを辿ることは困難。世話好きの田中とみが、佐渡出身の代議士山本悌二郎らの推薦状を携えて、隣村の田中家由来の大島本売却交渉のため、高木文を尋ねた可能性はあるにしても、やはり、大島本の越左に関しては、和歌の家としての貝塚田中家を起点に考えて良いように思われる。
別窓 | 池田亀鑑 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
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