物語学の森 Blog版 相撲節会の勝敗が判る史料ふたつ
相撲節会の勝敗が判る史料ふたつ
2017-04-08 Sat 09:29
 発表者が見つからぬ場合という条件付きでの『源氏物語』「椎本」条に関する報告に備えて、文献整理中(薫「相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎて、さぶらはむ」)
 平安中期の相撲節会の勝敗が判る史料はふたつ。

『小右記』長元四年(1031)七月廿九日。甲戌。
 酉剋許、相撲惟永参来云『従一番至六番右勝了。後未為七番之前罷出』。惟永二番也。先是頭中将差舎人申送。『一番近光二番惟永皆勝了』者。可給陰陽師為行禄之由示送之。
 入夜、将監為時持来「手結」。十一番右勝。右最手勝岡、腋為男、為永不取。右幹行申障被免歟。十二番左申障。此間二番為左勝。金勝一番。金一番天判。左陰陽師恒盛。右陰陽師為行。為時々取遣符納絹二疋給為利。
入夜、三位中将(藤原兼頼)来云『東宮参上給。候御供。更闌罷出』。又云『左相撲極無力云々。未見如此之事。内府候簾下』者。又清談次、伝示道成朝臣給官事。小時、『阿波相撲良方執敵髪。有勅。令候府』者。

  ※「手結(てつがい)-星取表」「最手(ほて)-横綱・大関」「腋-関脇」「金-金星」「天判-天皇の判定」「更闌-夜更け」

左勝 (此間二番為左勝+良方反則勝) 計3勝
右勝 1.2.3.4.5.6 ……11(不戦勝)     計7勝  
  2番不明(12番「申障」により中止か)
計12番 
 敵の髪を執る反則をした阿波の相撲人・良方は、後一条天皇の命令により近衛府に拘禁され、八月三日、右近衛大将・藤原実資が赦免を天皇に言上、翌日保釈されている。

『うつほ物語』「内侍のかみ」巻 395⑯

 その相撲の日、仁寿殿にてなむ聞こし召しける。(略) 左、右近衛大将より始めて、よろづの天の下の人参り給ふ。左、右近の楽人、おりととのへて候ふ。面白きこと限りなし。皆、相撲の装束し、瓠花挿頭しなど、いとめづらかなることどもしつつ、左、右近の幄打ちつつ候ふ。限りなく清らなる御かたちども、まして、御装束奉りて、皆、その日、男・女、二藍をなむ奉りける。(略)
今は、皆、相撲始まりて、左、右の気色、祝ひそして、勝ち負けのかつきには、四人の相撲人出だして、勝つ方、一、二の相撲、方人(かとうど)に取られ給へる親王たち・上達部、大将、中、少将、楽し給ふ。十二番まで、こなたかなた、かたみに勝ち負けし給ふ。ただ今は、こなたもかなたも、数なし。今一番は、出だすべきになむ、勝ち負け定まるべき。左に、名だたる下野の並則、上りて候ふに、並則が都に参上ること三度、ここばくの年ごろの中に、一度は仕うまつれり、一度は合ふ手なくてまかり帰りにき。天の下の最手(ほて)なり。左大将のおとど((源正頼))、「右の相撲、これに合ふべきはなし」と思して、こたびの相撲にぞ勝負定まるべければ、せめて、こなたかなたに挑み交はしておはしまさふ。左は並則を頼み、右は行経を頼みて、大願を立てつつ、勝たむことを念じ、さらに、相撲、とみに出で来ず。(略)
 からうして、まづ、左に並則、右に伊予の最手行経出で来る時、人々、「こたみの相撲の勝ち負けの定まらむこと、いと無期なり。まさに、並則・行経が合ひなむ手は、とみに定まりなむやは」と、心もとなくてあるほど、上、「いと切に労あり。左にも右にも、今日勝たむ方は、参れる人、分かれて、その府の人・官人の送りせよ」と仰せられて、左、右と遊ぶこと限りなし。かかるほどに、なほなほ、左勝ちぬ。左より、四十人の舞人分かれて、人など、数知らず出で来て、遊ぶこと限りなく、面白く遊びせめて、左大将殿、かはらけ取りて、並則に賜ひて、衵の御衣脱ぎて賜ふ。

左 勝7番
右 勝6番
計 13番

 参考文献 上原作和「相撲節会」黒板伸夫監修・三橋正編『小右記註釈-長元四年条』八木書店、2009年
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