物語学の森 Blog版 坂本太郎の回想
坂本太郎の回想
2016-11-17 Thu 08:02
 戦後古代史学の礎を築いた坂本太郎(1901-1987)の回想録『わが青春』。(『坂本太郎著作集』第十二巻、吉川弘文館、1989年、初出『古代史への道-考証史学六十年』1980年)。齢80前にして関係者が全員物故している上、実際、事実と異なることも耳に入ってきたので、敢えて書き記すことにしたという。完全オフレコの話が、考証史学者の回想として語られています(一箇所、長谷章久の「章」は誤記)。ただし、この手の話は大学に関係している人間であれば、残念ながらどこでもある話。自分も、いつどこで、その当事者となってしまうとも限らないことを知ったのはつい最近のことではありました。
 文面からすると、坂本太郎は国文学科のガバナンスにかなり疑念を抱いていたようだし、時枝氏の傲慢ぶりには相当閉口していた模様。池田、麻生、時枝の三氏は、こののち立教大学でも同僚になる予定だったことが「立教大学新聞」(126号、1956年1月20日発行)から知られます。(ただし、専任教授は池田亀鑑のみ、麻生、時枝両氏は講師としての設置認可メンバー)。言うまでもなく、時枝氏は、定年退官後、神田川のほとりの大学に招かれ、その学統が継承された模様。物語研究会の語り・言説論に大きな影響を与えている時枝氏の代名詞「言語過程説」、この学説に潜むアンチ文献学の源基はここにあったのかもしれません。

恵まれた東大教授の十七年間 ㈥学位論文の審査

 文学部教授としての公的な責務として重大なものの一つに学位論文の審査がある。旧制の学位論文の受付は三十六年三月で終わり、一年以内に審査しなければならぬから、私の停年退官の年と学位論文審査の下限の年とがたまたま一致した。国史にはかなり多くの学位請求者があったから、私か主査になり、または副査になった学位論文の数は文学部内では多い方である。せいぜい数点の学位論文の審査で終わる人もあれば、ほとんどかかわりのない人もいる。学科によってその点は不均衡も甚だしいと陰口をきいたものである。
 学位論文は大学の本部に提出され、本部から関係学部に廻される。教授会はそれをうけて、審査員として主査一名、副査二名をきめる。文学部の慣例では、主査にはその論文題目にもっとも関係の深い教授が選ばれ、副査の一人には同一学科の教授でなく、関係学科の人を選ぶことになっていた。提出者の意向などはもちろん取上げない。これらは長年の間に築かれた学部内の慣例で、審査の公平を保つ配慮であろう。また主査と副査との間の負担はかなり違う。主査は審査報告を起草しなければならぬから、本当に全文を精読しなければならぬが、副査は主査の起草した文章を承認し、または若干の私見を加える程度で事はすむ。
 私が最初に主査として審査報告を書いたのは、家永三郎氏提出の「主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究」であった。これはいつ提出されたのか私には記憶がないが、はじめ主査は美術史の児島喜久雄教授であった。家永氏は国史学科の出身であり、題名にも「主として文献に拠る」という限定を加えて、国史学の論文としてふさわしいような配慮がされているが、美術史学の教授が主査になったのは、終戦直後の国史学科への不信や、私が新任で経験不足であると認められたからであろう。ところが児島教授は一向審査を進める様子はなく、二十三年には遂に逝去してしまった。後任には九州大学から矢崎美盛教授が来たが、この人は主査になる意志はないらしく、教授会の国史学科への風当りも静かになったからであろう、改めて審査員を変更し、私が主査、矢崎、岩生の両教授が副査となって審査し、無事に教授会を通過させた。こういういきさつがあって家永氏にはずいぶん待遠しい思いをさせたことと、申訳なく思っている。それからは私が主査となって審査したものは、井上光貞氏(日本浄土教成立史の研究)、吉村茂樹氏(国司制度崩壊に関する研究)、豊田武氏(中世日本商業史の研究)、平田俊春氏(日本古典の成立の研究)、虎尾俊哉氏(班田収授法の研究)、村尾次郎氏(律令財政史の研究)、竹内理三氏(日本に於ける貴族政権の成立)、宝月圭吾氏(中世量制史の研究)、下村富士男氏(明治初年条約改正史の研究)、井上薫氏(奈良朝仏教史の研究)の十件に上る。
 副査として、審査に参加した論文は、国史関係で、岩生成一氏、宮崎道生氏、新城常三氏、安田元久氏、笠原一男氏、和島芳男氏、小島鉦作氏、佐藤進一氏のもの、国文関係で西尾光雄氏、松田武夫氏、松村博司氏、松尾聡氏、大津有一氏、峯岸義秋氏、高木市之助氏、市古貞次氏、鴻巣隼雄氏、倉野憲司氏、阿部秋生氏、西下経一氏、尾山篤二郎氏、犬養孝氏、藤井信男氏、長谷章((×幸))久氏のもの、東洋史関係で岩井大慧氏、末松保和氏、平中苓次氏、西島定生氏、考古学で尾崎喜左雄氏、宗教学で堀一郎氏、印度哲学で石田瑞麿氏、倫理学で数江教一氏、社会学で有賀喜左衛門氏など、どんな内容のものであったか、正確には憶えていないほどの多数に上る。
 どれも私の主査もしくは副査として参加したものに、大した問題になったものはないが、ただ一つ副査をしたため、裁判所に証人として呼出されるという事件にあった。それは国文学科の三宅清氏の提出した「御杖ノ学説」という論文で、手許にある昭和二十八年十一月四日付の「学位請求論文審査中のもの調」という表では、その論文は昭和二十一年九月十六日の提出で、その時点ですでに七年間も据置かれたままになっているのである。審査員は主査久松潜一、副査麻生磯次、岩生成一となっているから、私は関与しないのである。久松教授は審査しないままに退官したので、審査員の変更が行われたが、三宅氏の方も別の題名の論文を提出したので、主査が時枝誠記教授となり、私が副査に加わったらしい。この論文も主査の認める所とならず、審査報告は否決であった。三宅氏はどういう理由か忘れたが、とにかく裁判所に提訴し、時枝氏も私もすでに停年退職した後の三十七年八月七日、私は東京地裁に呼ばれて、学位論文審査の手続きなどについて質問された。詳しいことはおぼえていないが、とにかくこんな学問上の問題が訴訟で決着つけられるものではない。提出後長く放置しておいた審査員の怠慢は責められても仕方ないが、法律問題にはならないであろう。
 これは国文学科の学位論文の副査をして、とんだ傍杖を食った例であるが、外にも国文学科についてはいろいろの思い出がある。これは関係者はみな故人となっているから、そのうちの一つの事実を記しておきたい。それは国文学の島津久基教授が二十三年に逝去したあとの教授の選考のことである。教授の選考は五人の選考委員が教授会で選ばれて候補者を審議するのが慣例であるが、候補者の名を出すのは当該学科の主任教授である。誰が選考委員であったかすべては憶えていないが、久松・時枝の両教授の外に隣接学科のゆかりで私も委員とされた。選考委員会は学部長の主宰で開かれるが、そこに国文学科主任教授の久松教授の提出した候補者は当時助教授でいた池田亀鑑氏であった。池田氏は昭和九年に助教授に任官しているのであり、すでに助教授の古参であり、その学問的業績の偉大であることは、多くの人の認める所であるから、この人選は私にはごく順当と思われた。ところが意外なことに同じ学科の時枝教授が強硬な反対論をとなえて、承引できないという。この委員会に提出するまでには、同じ学科の教授の間では当然意見調整はしてあるはずなのに、久松教授はそれをしていなかったようである。久松教授ののん気さにもあきれたが、時枝教授の剛情にも好感はもてなかった。池田氏は選科出身ではあったが、私と同年の卒業で、親しみを持っていたので、こうした横槍で教授昇任の機会を失ったのに同情を禁じ得なかった。結果は久松教授が池田氏を撤回し、時枝教授の提案で、教養学部から麻生磯次教授を迎えることとなったが、それが国文学科にとってプラスであったかどうか私は知らない。池田氏はこの後久松教授が昭和三十年停年退職するまで助教授に止まり、三十年に教授に昇進したが、教授在任僅かに一年、三十一年の冬には逝去してしまった。何とも気の毒の至りであった。晩年心臓を悪くして、歩くのも苦しそうな氏に、大学構内で出あって、深い感慨を抱いたことを忘れない。

自邸を散策する池田亀鑑 自庭を散策する池田亀鑑

藤村作遺墨
先師・藤村作の遺墨を背に(1954年)
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