物語学の森 Blog版 薫が「まだ夜深きほどに帰」った理由。
薫が「まだ夜深きほどに帰」った理由。
2016-10-11 Tue 08:05
『源氏物語』「椎本」巻。八宮は後事を薫に託して和歌を唱和します。

  「おのづからかばかりならしそめつる残りは、世籠もれるどちに譲りきこえてむ」
 とて、(八)宮は仏の御前に入りたまひぬ。
  「われなくて 草の庵は 荒れぬとも このひとことは かれじとぞ思ふ
  かかる対面もこのたびや限りならむと、もの心細きに忍びかねて、かたくなしきひが言多くもなりぬるかな」
 とて、うち泣きたまふ。
客人(薫)、
  「いかならむ 世にかかれせむ 長き世の 契りむすべる 草の庵は
 相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎて、さぶらはむ
 など聞こえたまふ。     大島本「椎本」巻

 「相撲など」とはあるのは「相撲節会」。薫は、中納言、侍従らで編成される「相撲司」に任命されていたため、「夜深い」うちに帰洛したと考えられます。先に月齢から考証した15日は「相撲節会・召仰(めしおおせ)」前日、16日は当日だったから、と言うことになります。宰相中将から中納言(中将兼官)に昇進したばかり(「紅梅」巻に、源中納言、「竹河」巻でも「中納言」昇任の記事があり、注意を要する)の薫が、近衛府主管の行事に遅参・欠席は許されません。かくして、少なくとも一連の行事が終わる29日までは宇治に出向くことも出来なかったことになります。

 そもそも、この節会、平安時代前期は七夕の行事でしたが、天長 3年(826)、平城天皇の「国忌(こき)」を避けて 7月16日に移され、30年ほど7月半ばに行われていました。さらに貞観年中(859~77)からは 7月下旬となり、 7月が大の月の場合28~29日、小の月の場合27~28日に原則として行われるようになりました。
 ところが、長元 4年(1031)の7月は大の月、28日は陰陽道の「坎(かん)日」)であったため、期日は29~30日とし、忌日を避けることとなりました。また、右大将・実資は8月に入っても反則により拘束された相撲人を免じたりの処理に当たっています(詳しくは拙稿「相撲節会」『小右記註釈-長元四年』参照のこと)。
 かくして、『源氏物語』の時代の日程は固定化されていたもよう。

16、17日、召仰(めしおおせ)-「相撲を行うべし」との勅を上卿が受け、左右近衛府の中将以下に伝え、左右の近衛府に相撲所が設けられ、楽などの打ち合わせも行われる。

26日 内取(うちとり)-稽古は「内取」と呼ばれ、左右の近衛府で行う稽古を「府の内取」という。その後、仁寿殿で天覧。これは「御前の内取」という。これも左の後に右が行ったとされる。 この稽古を見て実力を測り、当日の序列や取組を決定する。

28日 召合(めしあわせ)-紫宸殿で天覧・大臣以下列席の許、相撲が行われる。

29日 抜出(ぬきで)-前日の取り組みから相撲人を選抜して行う。
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