物語学の森 Blog版 空を見上げる清少納言
空を見上げる清少納言
2016-10-06 Thu 08:17
清少納言邸宅想定図

  秋は夕暮れ。夕日のさして山の端 いと近うなりたるに からすの寝 どころへ行くとて 三つ四つ 二つ三つなど 飛び急ぐさへあはれなり。  『枕草子』「春はあけぼの」段
 夜深き月の明らかにさし出でて、 山の端近き心地するに、 念誦いとあはれにした まひて、昔物語したまふ。
  『源氏物語』「椎本」巻
 平安京と宇治の西に山がないことから、このふたつのテクストを再検討し、「月に照らし出された山の端が間近に見えて、思いがふと過去に帰ってゆく」と解釈した論文が話題。ただし、『枕草子』の場合は、清少納言が見上げた空の位置が、定子薨去後の「山里」からの風景であることが顧慮されていません。山里とは、清原元輔所有の桂山荘Dと二番目の夫・藤原棟世の月の輪山荘のふたつが想定されます。このうち、後者は、定子の眠る東山にある泉涌寺境内A説が広く知られていますが、ここは藤原道長・頼通の法性寺所領圏内につき、領有そのものが疑われるところ。愛宕山の中腹・月輪寺付近とするB説、さらに、愛宕山中腹で隠棲するにはあまりにも山奥であるとして(標高550メートル)、坂下西の月林寺C説(曼珠院西)が提案され、今のところこれが最新の説。B説は山稜部で「山里」であることに違いはありません。ただし、C説はD説の桂山荘から遠いことと、「西に高い山がない」こと、山陵とは言い難いことが難点ではあります。
 これらの論拠となる 『清少納言集』『公任集』『元輔集』の諸文献を総合すると、定子薨去後の動静は以下のように考えられています。

 長保三、四年(1001.1002)頃、 夫・棟世の任地・摂津に過ごす。
 長保四、五年(1002、1003)頃 父・元輔の桂山荘にて過ごす
 寛弘元年(1003)頃 棟世の隠棲する月の輪でともに過ごす  「清少納言が月の輪に帰り住む頃」『公任集』
 
 『枕草子』もこの頃まとめられたとされています。テクストに何度も出てくる「山里」で、清少納言は空を見上げて思いを綴ったと考えれば、夕日の差す「山の端」は、西にそそりたつ嵐山であり、愛宕山であることになります。

 また、七月の夜深き宇治の「山の端」については、今年の新暦換算の八月の月の出入、日の出没を方位とともに示してみると、月は東から昇り、東北にある「山の端」を「月が照らす」のであればよいことになります。諸注釈が「さし出づ」を「月が沈む」と意訳する当否は、別に書くことにします。

2016年8月京都 月出・方位 月入・方位 日出 日没
14日(旧暦7月12日) 15;25(113) 1;06(247) 5;16 18;47
15日(旧暦7月13日) 16;16(113) 1;55(247 5;17 18;46
16日(旧暦7月14日) 17;04(108) 2;49(248) 5;17 18;44
17日(旧暦7月15日) 17;50(111) 3;48(250 5;18 18;43
18日(旧暦7月16日) 18;33(104) 4;50(253) 5;19 18;42
19日(旧暦7月17日)19;14 (99) 5;54(258) 5;20 18;41 
20日(旧暦7月18日) 19;54 (94) 6;59(263) 5;20 18;41

 「夜深きほどの月」は『紫式部日記』にも見えており、これは日の出以前、しかも格子を上げる「辰の一刻」より、かなり早い時間であったことが判ります。

 まだ 夜深きほどの月さし曇り、木の下 をぐらきに、「御格子参りなばや」「女官は、今まで さぶらはじ」 『紫式部日記』五壇の御修法 
※ 「凡そ毎日辰一刻(7時)格子を上ぐ、…戌の一刻(19時)格子を下ぐ」『侍中群要』第一

 かくして、「山の端」を、夕日と月が「間近で照らし出す」ことで、なんら問題ないように思われます。いかがでしょうか。

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