物語学の森 Blog版 池田芙蓉の関東大震災報告記「命がけで帝都に入るの記」とフェリス女学校長・カイバー女史の殉職
池田芙蓉の関東大震災報告記「命がけで帝都に入るの記」とフェリス女学校長・カイバー女史の殉職
2016-07-03 Sun 06:49
 大正12年9月1日の関東大震災に関する池田芙蓉の報告記「命がけで帝都に入るの記」(「少女の友」「震災特集」第十六巻第十号、1923年10月)。
この号は、岩下小葉「記者が恐怖の三日間」に「どこからともなく奇怪な○人(ママ)の襲来の噂が伝はつて来た。大厦高楼が、かくも一時に焼けたのは、地震の結果ばかりではない。機に致るをねらつてゐた○人が、一斉に立つて火を放つたのである。炸裂弾を投じたのである。(恐怖の絶頂)」等と流言飛語をそのままま伝える記述があったこと等から発禁処分となった幻の号。

 池田芙蓉は、「郷里鳥取に帰省してゐた私が関東の地震を知つたのは九月三日でした」と始まり、四日の新聞で「東京市には戒厳令がしかれ」たことを知る。また、
 一、公務を帯びるもの
 二、自ら多量の食糧を携帯するもの
 三、東京市内に家族を有するもの
 これら三項目のいずれかに該当しないと入市を許されないと知り、二項目の食糧搬入を名目として、弟(辰郎氏)ともに米を担いで五日に上京することとしたとあります。東海道線は通行不可につき、名古屋駅から中央線を選び、松本、塩尻に辿り着き、ここから長野発八王子行きの列車に乗る。甲府での何千人にも及ぶ旅客の大混乱を経て、笹子トンネルの黒煙をタオルで避けることに成功、上野原から徒歩連絡で八王子駅。都合六時間を経て新宿に着いた由。「身体を清め、千駄ヶ谷の岩下さんを訪れたのは二時間の後、午後一時前十分くらいの時でありました。なつかしい神苑のかげ、芙蓉さく洋館を訪ねてみますと、岩下さん御一家皆御無事で心よく私達をお迎え下さいました」として擱筆されます。この岩下一家には翌年四月結婚することになる房子がいたことになります。

 また特筆すべきは、この報告記事には四つのコラムが挿入されていること。震災で殉職したフェリス女学校のカイバー女史、桜井産婦人科病院の井上操看護婦の活躍、子が行方不明の本所入江町の某洋服裁縫屋夫婦、父母を捜して千葉の女学校友人宅に逃れた「お嬢さま八百屋」海野宏子。さらには震災に胸を痛め、下賜金を捻出する若き日の久邇宮良子女王(香淳皇后)の消息もあります。冒頭のコラムを紹介しておきます。

 横浜フエーリス女学校の校長をしてゐらつしやる米国人のミス、カイバー女史は、地震の際、お気の毒にも、倒壊した校舎の下敷きになつてしまひました。
 職員や生徒が、心配して駆けつけますと、首だけ出してをられた先生は、どうかして助け出さうとする職員や生徒を却けて、『私は今神様のお召しで天国に行くのです。どうか皆さん放つておいて下さい』と云つてきゝませんでした。そのうちに火焔は用捨もなく、校舎を包んで次第に先生のほうへ近寄つて来ましたので、先生は『皆さんに宜しく』と最後の一言を残して焔の中に消えてしまはれました。


 
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