物語学の森 Blog版 『吾輩は猫である』の「二絃琴」
『吾輩は猫である』の「二絃琴」
2016-05-01 Sun 07:55
 『吾輩は猫である』には、「二絃琴」とその師匠が登場。ただし、現行流布本には注記がないようなので、とりあえず。

「二絃琴」は幕末の日本で開発された絃楽器で、八雲琴と東流二絃琴、別流に箏曲家葛原勾当(1812-1882)が「竹琴」と名づけた二絃琴がある。八雲琴は「出雲琴」「玉琴」と呼ばれ、元祖八雲琴匠・中山琴主(1803-1880)の創案とされています。
 二弦琴の写真・説明
 坂本龍馬と一絃琴 これについては拙編著『日本琴學史』参照のこと。

 「十一」段の「無絃の素琴を弾じさ」は翌年発表の『草枕』(昭和39年/1906)にもほぼ同様の言説が転用されている。これは陶淵明(東晉・劉宋の詩人)の「無絃琴」を踏まえたもの。
 『晉書』「隱逸傳」
 「性不解音、而畜素琴一張、絃徽不具、毎朋酒之會、則撫而和之、曰、「但識琴中趣、何勞絃上聲」。

 ※陶淵明は、生来、琴韻を理解できないのにもかかわらず、常に一張の琴を手にしているが、絃と徽が不備の琴である。宴のたびに琴を撫でつつ琴韻を楽しみながら言う。「ただ琴の趣を知るだけなのに、どうして絃を響かせて音色を奏でる必要はあるのか」と。

  これを受けて陶淵明の故地・地九江に左遷された白楽天が、五言古詩「陶公の舊宅を訪ふ」で「無絃琴」を詠んでいる。これはもちろん、七絃の古琴である。漱石は、これらの古典を踏まえながら、新興の二絃琴を小説に取り込んだのであった。

  不慕樽有酒  樽に酒有るを慕はず
  不慕琴無絃  琴に絃無きを慕はず
  慕君遺榮利  君を慕ふは榮利を遺(わす)れ
  老死此丘園  此の丘園に老死せしこと
  柴桑古村落  柴桑の古村落
  栗里舊山川  栗里の舊山川
  不見籬下菊  籬の下に菊を見ずして
  但餘墟中煙  但だ墟中の煙を餘す

『吾輩は猫である』(昭和38年/1905)
   二  
 人間は自分よりほかに笑えるものが無いように思っているのは間違いである。吾輩が笑うのは鼻の孔を三角にして咽喉仏のどぼとけを震動させて笑うのだから人間にはわからぬはずである。「一体あなたの所とこの御主人は何ですか」「あら御主人だって、妙なのね。御師匠さんだわ。二絃琴の御師匠さんよ」「それは吾輩も知っていますがね。その御身分は何なんです。いずれ昔は立派な方なんでしょうな」「ええ」
  君を待つ間まの姫小松……………
 障子の内で御師匠さんが二絃琴を弾き出す。「宜い声でしょう」と三毛子は自慢する。「宜いようだが、吾輩にはよくわからん。全体何というものですか」「あれ? あれは何とかってものよ。御師匠さんはあれが大好きなの。……御師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し間まが抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそうおっしゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先さきの御っかさんの甥おいの娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「なるほど。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」。
   十一
  床の間の前に碁盤を中に据えて迷亭君と独仙君が対坐している。
「ただはやらない。負けた方が何か奢るんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯を引っ張りながら、こう云いった。
「そんな事をすると、せっかくの清戯を俗了してしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗を度外において、白雲の自然に岫を出でて冉々たるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中の味わいはわかるものだよ」
「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然えんぜんたる列仙伝中の人物だね」
無絃の素琴を弾じさ
「無線の電信をかけかね」
「とにかく、やろう」
「君が白を持つのかい」
「どっちでも構わない」
「さすがに仙人だけあって鷹揚だ。君が白なら自然の順序として僕は黒だね。さあ、来たまえ。どこからでも来たまえ」
「黒から打つのが法則だよ」
「なるほど。しからば謙遜けんそんして、定石にここいらから行こう」
「定石にそんなのはないよ」
「なくっても構わない。新奇発明の定石だ」
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