物語学の森 Blog版 宮城道雄の琴箏理解
宮城道雄の琴箏理解
2015-11-22 Sun 08:41



 目白の学習院大学で物語研究会例会。秋色のキャンパスは美しい。ただし、二次会のお隣のK学部のどんちゃん騒ぎにはキレました。 その後、強面の女子大教員さんが謝りに行ったらしい。以前もおなじところで同じように煩かった気がします。この時は某先生の注意一言で収まりました。

 さて、先に触れた宮城道雄「箏を独習する手引き」『お稽古事独習全書』を入手しました。

箏がいつごろ我が国に伝わつたかということについては、ある書物に、宇多天皇の寛平四年に石川色子が豊前の英彦山で唐人から習つたということが記してあります。日本で『こと』と呼ばれる楽器にはいろ/\種類がありますが、古くから中国に琴(きん)と瑟がありまして、この二つの楽器がお互いに助け合つて。合奏することから、夫婦の仲のむつまじいことを琴瑟相和すと申しています。琴のほうは糸数が少なく、瑟のほうは糸数が多く、今こゝでお話しする箏は瑟から分かれたものだと言われております。
日本で弾く二絃琴や一絃琴などは左の指に管をはめて、糸をおさえながら節を出しますが、近くはハワイヤンギターのようなものが、琴の部類で、箏のほうは柱を立てゝ、調子を合わせておいて弾く――要するに柱のないのが琴で、柱のあるのが箏という風に区別すればよい、とある学者がいつております。     二七八頁
「ある書」とは『河海抄』「石川色子筝伝授譚」、『和名類聚抄』「序」のこと。


 『心 漱石文学全注釈』は、中国伝来の琴ではなく、明治の当時、日本で流行っていた琴と言う規準でお書きになったようです。
一絃琴は、『龍馬伝』第三回に、龍馬の初恋の人、平井加尾が一弦琴で「須磨」のさわりを弾き、唄は入らなかった由。

 「一絃」琴《松平四山の「当流板琴大意抄」(1841)では、9世紀に在原行平が須磨に流されたとき、庇の板で一弦の琴を作りつれずれを慰めたので須磨琴と呼ばれて一弦琴の祖となったと記している》 『世界大百科事典』
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