物語学の森 Blog版 新発田城跡
新発田城跡
2015-11-13 Fri 06:52



 新潟遠征。同窓の先生がご担当と言うこともあるのか、すでに二回呼んで頂きました。午後からだったので、歴史の町・新発田を探訪。昨年の初夏、足軽長屋には行ったので、今回は駅から約一㌔の新発田城へ。晩秋の風が心地よし。地元の方が管理されておられました。

 先日記した、『春琴抄』の、幕末女性の稽古事の記事、冒頭を読み直してみると、晴眼の時代の佐助や、美貌が目当てで弟子になった利太郎も、三味線の習い事をしていました。本文には芸事で身を立てる弟子を「玄人衆」、当初の佐助や利太郎のような、良家の子女の手習いを「素人衆」と称して、盲人・晴眼ともに検校に通っていたことが記されてあります。ゲラはまだ時間もあるので、当時の実態をさらに調べて見ます。
 話を要約すると、舞台は大阪道修町。鵙屋琴(もずやこと)は裕福な薬種商の二男四女の次女として生まれた。この少女は9歳の時、病を得て失明。まもなく店に丁稚奉公に来たのが温井(ぬくい)佐助、13歳。春琴は、失明により、琴・三味線が生涯の仕事となったので、佐助が春琴の手を引いて師匠の家まで送り迎えをすることになった。のちに春琴という号を音曲の師匠から贈られる。と言う展開でした。

 当時の証言として、作中人物の鴫沢てる(晩年の春琴や温井検校に仕えた生田流勾当)が、「よい内の娘さん方は早くから遊芸のけいこをされますのがその頃の習慣でござりました」とあって、広岡淺子のような大阪の裕福な町人の家では、子女に琴、三味線の稽古事をさせるのが慣わしであったことが分かります。広岡淺子の自伝『一週一信』のデジタルライブラリー版9コマ目にも「私もその例に洩れず、日々裁縫、茶の湯、生花、琴の稽古を強ひられました」とあって、「老人を楽しませる遊芸」として稽古事のあれこれが回想されています。

 東京での相伝事情についても調べてみます。

別窓 | 全国ツアーの巻 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<<谷崎潤一郎と上方の藝能 | 物語学の森 Blog版 | 幕末・明治の箏曲相伝事情>>
 
 
 
 
 
 
  管理者だけに閲覧
 

トラックバックURL

FC2ブログユーザー専用トラックバックURLはこちら
| 物語学の森 Blog版 |