物語学の森 Blog版 秦酒公の弾琴と『広陵散』
秦酒公の弾琴と『広陵散』
2015-07-30 Thu 09:32
 『日本琴學史』加筆中。
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 日本の平安時代文献以前では「コト」と言えば、一般に「和琴」のことであるとされてきたものの、『日本書紀』雄略天皇(四十二)秦酒公の琴は、渡来氏族の琴であるから和琴ではあり得ず、七絃琴でなければならない。秦酒公の琴は免罪を訴えたものであり、後述する石上乙麻呂の「彈琴顧落景」の詩境に通う、『広陵散』の嵆康が刑死に臨んでの弾琴を踏まえているものと判明する。
十二年夏四月丙子朔己卯、身狹村主靑與檜隈民使博德、出使于吳。冬十月癸酉朔壬午、天皇、命木工鬪鶏御田(一本云「猪名部御田」蓋誤也)始起樓閣。於是、御田登樓、疾走四面、有若飛行、時有伊勢采女、仰觀樓上、怪彼疾行、顚仆於庭、覆所擎饌。(饌者、御膳之物也)天皇、便疑御田姧其采女、自念將刑而付物部。時秦酒公、侍坐、欲以琴聲使悟於天皇、横琴彈曰、
柯武柯噬能 伊制能 伊制能奴能 娑柯曳鳴 伊裒甫流柯枳底 志我都矩屢麻泥爾 飫裒枳瀰爾 柯拕倶 都柯陪麻都羅武騰 倭我伊能致謀 那我倶母鵝騰 伊比志拕倶彌皤夜 阿拕羅陀倶彌皤夜
於是天皇、悟琴聲而赦其罪。
十二年(四六八年)の夏四月の丙子の朔己卯に、身狹村主靑と檜隈民使博德とを、呉に出使す。冬十月の癸酉の朔壬午、天皇、木工鬪鷄御田(一本に、猪名部御田と云ふは、蓋し誤なり。)に命じて、始めて樓閣を起りたまふ。是に、御田、樓に登りて四面に疾走ること、飛び行くが若き有り。時に伊勢の采女有りて、樓の上を仰ぎて觀て、彼の疾く行くことを怪びて、庭に顛仆れて、擎ぐる所の饌(饌は、御膳之物なり)を覆しつ。天皇、「便に御田を其の采女を奸せり」と疑ひて、<刑さむ>と自念して、物部に付ふ。時に秦酒公、侍に坐り。「琴の聲を以て、天皇に悟らしめむ」と欲ふ。琴を横へて彈きて曰く、
  神風(かむかぜ)の 伊勢の 伊勢の野の 栄(さか)枝(え)を 五百(いを)経(ふ)る析(か)きて 其(し)が尽くるまでに 大君に 堅く 仕へ奉ら 
むと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠はや あたら工匠はや
是に、天皇、琴の聲を悟りたまひて、其の罪を赦したまふ。
 「楼閣」と「琴」は『うつほ物語』音楽伝承の型の先蹤とも言えるものであり、また身に覚えのない罪を晴らすことにより、君子の過ちを正すのは、琴そのもののの徳義性の浸透がすでに窺えると言えよう。
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