物語学の森 Blog版 長勝院伝説の典拠『館村旧記』『館村風土記』
長勝院伝説の典拠『館村旧記』『館村風土記』
2015-04-02 Thu 07:23
 志木の藤原長勝伝承の典拠は宮原仲右衛門著『館村旧記』(1729年)でした。『志木市郷土誌』(志木市、1978年)に「田面長者長勝の伝説」の項があり、様々な情報はここから発信されていたことが分かりました。 「『館村旧記』は旧新座郡館村(現在の柏町、幸町)の名主宮原仲右衛門が享保十四年(1729年)に著述したもの」とあり、もうひとつこれを敷衍した著述『館村風土記 長勝院由来記』(著者等不詳-ただし、宮原家所蔵)があるようです。いずれも辻褄が合わないところがあり、後半は特に筆が逸れて、長勝と業平とが清盛時代を共に生きると言う謎の人物になってしまっています。ともに個人蔵。

 『館村旧記』上巻によると、昔は清和天皇の御宇(856-876 )、『館村風土記 長勝院由来記』では保元元年(1156-『郷土誌』は「保元六年」トアルモ「正誤表」ハ「元年」)三月から、田面郡司藤原長勝という豪族が、現在地あたりに柏の城と呼ばれた居館を構えていたとありました。
 両者とも前半の梗概に違いはないようです。長勝は京都の公卿であったが、なにがしかの罪を犯して関東に移され、はじめ武州松山あたりに住んでいたのが、ゆえあって当所へ来たようです。業平とは旧知の仲で、東下りをしてきた業平に対し、城内西の丸に新しく館を作り、さらに亭まで設けて業平をもてなしていたところ、美貌の息女・皐月前(『風土記』では五月ノ前)十六歳と恋に落ち、ある夜、ひそかに駆け落ちして…「今日はな焼きそ」の物語(十二段)となったと言う。(『旧記』『風土記』「五月ノ前」の年齢は後者のみ)

 (以下、『風土記』の記述)
その後、二人はさらに下総国に逃避行を企てたところ、女は千住、業平は隅田川で捉えられたため、業平は「都鳥」の詩を詠んだという(このあたりからついてゆけませんが)。業平を乗せた馬が倒れて膝を折って死んだので、この地の名は、黒目川沿いの膝折(現在の朝霞市膝折)。

 さらに後日談が付加され、なんと平清盛(1118-1181)の使い・瀬尾太郎兼安がやってきて、皐月前を側室に迎えたいというので、長勝がこれを拒否したところ、保安元(『郷土誌』ママ)年十月二日、平惟盛(1158-1184)を大将に柏の城を攻めて来たと言う。長勝と業平は共に戦って討ち死、姫は都で清盛の妾となったと言う展開。ここに来て『館村風土記』は、後日談に年代を合わせていたことが判明します。ただし、清盛、維盛の年齢差40歳もあります。

 「入間の郡、みよしのの里」(十段)の娘の母の「藤原なりける」人から、『伊勢物語』を読み込み、章段を繋いだ筆力、それに『館村風土記』に至っては、清盛伝説を連結させた想像力もかくや、と思われるロマンがあります。もちろん、みよしのの姫、「父はなほ人にて、母なむ藤原なりける」だから矛盾。また平維盛は保元三年生だから、三歳か生まれていないか(爆笑)。 ちなみに、追っ手が武蔵野の若草に火をつけようとしたところは、我が家の傍の片山の「火の橋-現在は樋の橋」である由、橋の名前は散歩の時に要確認。

 なにより、この宮原家所蔵の写本、ぜひとも閲覧して紹介したいと思います。
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