物語学の森 Blog版 『竹取物語』の「王とおぼしき人」は阿弥陀如来か。
『竹取物語』の「王とおぼしき人」は阿弥陀如来か。
2015-02-20 Fri 09:01
 東大本『竹取物語絵巻』には、不死薬を翁夫婦に手渡す天人が描かれていますが、これを「王」と認定するには躊躇されます。国立国会図書館本の天人に服装の違なる天人いますが、これを「王」の含意とする事を除けば、それ以外の 『竹取物語絵巻』諸本を眺めても、天人の中の「王と思しき人」は描かれていません。近時公開された映像作品にははっきりと阿弥陀如来が迎えに来たことになっているようです。
 そもそも、阿弥陀如来が菩薩達(極楽浄土で修行する人々)を引き連れてやってきた構図と物語本文の重なるところがあることは認められるでしょう。天人達「百人ばかり」が「五尺ばかり上がりたるほどに立ち連ね」ている描写は、二世紀後の阿弥陀来迎図を先取りしているとも言え、往生者を迎えに聖衆が下りて来た場面を想起させるからです。阿弥陀如来に従い、楽器を奏で舞い踊る菩薩たちが、「百人ばかり」に相当します。本来、仏教においては、さまざまな修行方法で悟りを開き、仏になる方法を説く。その一つに阿弥陀如来が極楽浄土に衆生を救い取り、苦しみのない場所、修行に専念できる極楽浄土で衆生が仏になれると説くのが浄土教の教え。
 ただし、『竹取物語』の世界観にある不老不死は道教的思惟であり、仏教的な魂の救済のみではありません。天人が地上を「汚きところ」と規定したのは「穢れ」観そのものであり、その浄罪は、祓えと結びつく「神」観念に由来します。
 このことは、三橋正さんの規定した神祇信仰、日本的宗教構造成立の第二段階、貞観弘仁期の思想史的背景と見事に符合します。したがって、男性的言辞を弄する「王とおぼしき人」とは、天界の神でもあり、阿弥陀如来でもあるという、複合的な「カミホトケ」であると言えるでしょう。
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