物語学の森 Blog版 2015年11月
近代文学館、前田侯爵邸
2015-11-29 Sun 07:07


 駒場の
日本近代文学館「高見順という時代」の最終日に間に合いました。カフェ「BUNDAN」で「そぼろカレー」を食す。頗る美味でありました。前田侯爵邸にも足を延ばす。書斎は屋敷の中でも一等日の当たりのよいところ。戦後も尊経閣文庫を守ったのは財力だけではなく、経済変動にも対応できたからでしょう。
 


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『御堂関白記』の絃楽器表記 草稿
2015-11-28 Sat 10:00
△寛弘六年(1009)七月七日条「有作文、題『織女理容色』、為時作序、夜半許、従斉院((選子内親王))、中宮((彰子))琵琶・琴等被奉、是其形也。入腹中扇等。「使者仁久るを捕留給禄」云々。」
寛弘七年(1010)正月十一日条、「辛酉、除目事。従華山院御匣殿((平祐之女カ))許、得横笛〈歯(葉)二〉只今第一笛也、左宰相中将((源経房))志和琴、是故小野宮殿((藤原実頼))第一物<鈴鹿>、頼親((藤原))朝臣献箏、螺鈿。」 
◎長和元年(1012)十一月二三日条「辰日節会。次献物、同物名、稍後誼、加之八手給へ、三献後、御酒勅使、次献御挿頭・琴、行事上卿大夫等舁之、各四人。」
△長和二年(1013)正月九日条「参皇太后宮((彰子))、人々被参、有酒饌事、其次御琴等改絃、試笛等声」
◎長和二年四月十三日条「貫之書『古今』、文正書『後撰』進、入紫檀地螺鈿筥、裏末濃 象眼、付藤枝、作琴一張・和琴一張、入錦袋」                               『大日本古記録』(岩波書店、1953年)  
         
           
 
 長和二年正月九日、枇杷第に皇太后宮(彰子)が参啓した饗宴の席で琴の絃を張り替え、笛などで調絃して弾奏した事実が見えるし、同じく、長和二年四月十三日には中宮(妍子〉・藤原斉信よりの贈り物を皇太后宮に献じた一等品の中に、「琴一張・和琴一張」と見えており、「和琴」とは書き分けている。道長は「箏」もしくは、文選読み表記「箏御琴」についても現存本で七箇条で言及しており、これも書き分けている。例えば、寛弘七年正月十一日には四日後の十五日に犬宮(敦良親王)五十日の祝いが行われ、楽人達の演奏用として、藤原頼親から螺鈿の箏を献上されているのがその典型である。くわえて、この時献上された横笛「葉二つ」は『江談抄』第三・五十段等の説話にも登場する名品である。

 したがって、以上の『御堂関白記』の記事中、単独で「琴」と表記される、長和元年十一月二三日条と長和二年四月十三日条の二例は、確実に七絃琴のことであると認定できるように思う。ただし、「琴等」のある場合は、残念ながら「琴」「箏」が併記される例が見出し得ないので、いわゆる絃楽器の総称「琴(こと)」であって、「箏」「和琴」が含まれる可能性があるから注意を要する。しかし、単独で「琴」と表記される例が確実にあるので、前記七絃琴二例は確言できようかと思われるのである。このような楽器の書き分けと表記法は、「箏御琴(そうのおんこと)」のような、文選読みの踏襲とともに、現存『うつほ物語』『枕草子』『源氏物語』と同様である。
 いずれにせよ、道長には、当時極上の一等品が献上されているが、中でもとりわけ高い価値観が琴にあったことが知られよう。
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田上菊舎『手折菊』の大尾抄録
2015-11-26 Thu 06:55
 田上菊舎『手折菊』の大尾は、法隆寺の開元琴弾琴の記事。俳文和歌漢詩集の趣であり、いずれ田上菊舎の演奏記録を作ろうと思います。琴曲「南薫操」は聖天子舜の作と伝える詩「南風」に曲をつけたもの。かの清原俊蔭が天人から与えられた「南風・波斯風」の「南風」はこれが典拠なのだろうと思います。 

  「南風の薫れる 以て吾が民の慍りを解くべし/南風の時なる 以て吾が民の財を阜にすべし」」
----------------------
 十三峠にて
ちよつと洩せ十三峠ほとゝぎす 』34オ

 程なく法隆寺に至りぬ。爰に上田何某といふは、西徳寺のゆかりあれば、予も元より相しる人なり。こたび開扉に詣来りて、たぐひなき勝事に逢侍るも、みな上田ぬしの誘掖をもてなれば、厚情更にいはむかたなし。爰の地名を並松とかや。是に興じて猶末長く因み尽せぬ事を思ひ祝して

並松の落葉かくまでと訪初ぬ 』34ウ

 此法隆寺は三十三とせに一度づゝ開扉ありて、宝蔵の什器尽し出され、貴賤相つどひて拝観する例ならし。予も兼ねて開元琴の寄古なる事を聞侍しまゝ、拝観せばやと思ふ折しも、はや其事の吹聴ありて、予に其琴を一弾することをゆるし玉ふ。予は余りの冥加にめでゝ、すなはち、太子の尊像の前に」35オ
いたり、南薫操一曲を弾奏す。実にや数千年来の古楽器、開元の遺響絃上に備り、難有さいはむかたなし。

薫る風や諸越かけて七の緒に響すゞし富の小川も松籟も
  又
異国のしらべに掛ていかるがの宮のまつかぜ吹つたふらむ
  又                         』35ウ
世々ふりし七の緒ことの音もすみてとみの小川のながれつきせぬ
  又
   
幾歳傳聞抱賞心  即今親奏聞元琴
南風和得洋峩意  賓是先王大雅音     』36オ
                            』36ウ

手折菊第四大尾                 』37オ 
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秋山虔先生の『源氏物語―その主題性はいかに發展しているか』(1950年)について
2015-11-25 Wed 04:55



 秋山虔先生のお通夜で本駒込、養源寺へ。臨済宗妙心寺派を菩提寺にしておられるとのこと。近所にも7つほどお寺が密集、江戸の面影を宿すところでした。帰りがけ、この辺りに詳しい先生の案内で観潮楼・森鴎外記念館に立ち寄り、西に見えるスカイツリーと月をカメラに収め、記憶に留めることにします。

 秋山先生の御著書は当然すべて書架に揃っていますが、最初に読んだのは、岩波新書の『源氏物語』1968年。「若菜」巻の光源氏を論ずるくだりは圧倒的な吸引力に引き込まれ、一気に読了。読後に深い感銘を覚えた一冊。もし三冊に厳選して推薦せよという問い合わせがあればこれを推します。
 そこで、『人物で読む源氏物語 光源氏Ⅱ』(勉誠出版、2005年)は、巻頭に秋山先生の

 「光源氏の王者性について-断章」(「日本文学」、日本文学協会、 1993年8月)
 
 を掲載させて頂きました。秋山先生は、室伏先生を新監修者に迎えて新装してもらった「パンフレット」に推薦文もお書きいただき、この論文の再録について、「論のことを忘れかけていた。若い人たちに読んでもらえるのはありがたい。あの頃は頑張っていたのだなあと己を奮い立たせている。読み書きをこれからも続けてゆくので…」と言う趣旨のおことばを賜りました。このことを、お焼香を待つ間、ふと思い出していました。
 
 その後、今西祐一郎先生の肝煎りで、『テーマで読む源氏物語論』(勉誠出版、2008年)のうち第1巻「「主題」論の過去と現在」に、

 「源氏物語―その主題性はいかに發展しているか」『日本文学講座』 (古代の文学 後期) 第2巻(河出書房、1950年)

を再録させて頂きました。 ただし、この論文については、友人の結婚式でお会いしたとき、わざわざこちらの席に出向いてくださり、「あの論文は武田宗俊・成立論に乗って書いたので、岡一男先生に厳しい批判を頂戴した。そのため封印しているのです」とのお言葉があり、掲載に逡巡しておられました。解題担当の陣野さんからも丁寧な企画意図の説明があったことも大きな力となって、結果的にご許可頂けました。

 秋山虔セレクション『源氏物語の論』(笠間書院、2011年)にも、前記「王者性」は収められましたが、後者は除外されています。先生がまだ 二十代の述作であることにも注意しつつ、特に 『源氏物語』研究を志す若い研究者のみなさんにはぜひとも精読していただきたい論文であると思っています。

  成立論と言えば、折口成立論の系譜を継承する先生の御著作に関わっていますが、もし機会を得られれば、この問題についての私見を提示してみたいと考えています。
 いろいろなかたちでお教えを賜りました。冥福をお祈りいたします。
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田上菊舎尼の開元琴演奏供養。
2015-11-24 Tue 07:46
 江戸時代の女性琴人の筆頭は、田上菊舎尼( 1753~1826)。菊舎尼は、田上由永の長女で、名は「道」。朝暮園傘狂に入門して、熊本藩儒・高本紫溟、熊本藩医・村井琴山等と交わり、華音、唐音を学び、清人との詩の応答もある。
 当時、男性文人のものであった書・画・茶道・琴曲をもよくし、俳文紀行を記した『手折菊』もある。その『手折菊』には、文化九年(1812)、法隆寺の聖徳太子尊像前で、当時の寺宝(東京国立博物館現蔵・国宝)であった開元琴の弾奏を許されて『南薫操』一曲を弾いた記事がある。女流に前例のない多彩な一生を送った存在。

 菊舎尼には、顕彰会もあり、『手折琴』の複製も作成されているし、上野さち子編『田上菊舎全集』上下巻、和泉書院、2000年もある。次作には、簡潔に紹介するだけですが、いずれ、本格的に取り組んでみたいと思います。

 週末帰省して、父の作っていた田圃で採れた新米を調達してきました。今は、いとこの経営するライスセンターに完全管理をお願いしています。田植え、稲刈り、懐かしい風景、時は新嘗祭の日。上京途上で高速脇に墜落したヘリコプターの残骸が見えました。「論文演習」は1名欠席、理由は「祝日だからだそうです」。「○△君に、『△▼△▼』と伝えてよ」。発言内容はご想像にお任せします。この大学は土曜日のどんちゃん騒ぎに三倍くらい輪を掛けて弾ける学生気質。女子はクラスコンパには原則出席しないとのこと。

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宮城道雄の琴箏理解
2015-11-22 Sun 08:41



 目白の学習院大学で物語研究会例会。秋色のキャンパスは美しい。ただし、二次会のお隣のK学部のどんちゃん騒ぎにはキレました。 その後、強面の女子大教員さんが謝りに行ったらしい。以前もおなじところで同じように煩かった気がします。この時は某先生の注意一言で収まりました。

 さて、先に触れた宮城道雄「箏を独習する手引き」『お稽古事独習全書』を入手しました。

箏がいつごろ我が国に伝わつたかということについては、ある書物に、宇多天皇の寛平四年に石川色子が豊前の英彦山で唐人から習つたということが記してあります。日本で『こと』と呼ばれる楽器にはいろ/\種類がありますが、古くから中国に琴(きん)と瑟がありまして、この二つの楽器がお互いに助け合つて。合奏することから、夫婦の仲のむつまじいことを琴瑟相和すと申しています。琴のほうは糸数が少なく、瑟のほうは糸数が多く、今こゝでお話しする箏は瑟から分かれたものだと言われております。
日本で弾く二絃琴や一絃琴などは左の指に管をはめて、糸をおさえながら節を出しますが、近くはハワイヤンギターのようなものが、琴の部類で、箏のほうは柱を立てゝ、調子を合わせておいて弾く――要するに柱のないのが琴で、柱のあるのが箏という風に区別すればよい、とある学者がいつております。     二七八頁
「ある書」とは『河海抄』「石川色子筝伝授譚」、『和名類聚抄』「序」のこと。


 『心 漱石文学全注釈』は、中国伝来の琴ではなく、明治の当時、日本で流行っていた琴と言う規準でお書きになったようです。
一絃琴は、『龍馬伝』第三回に、龍馬の初恋の人、平井加尾が一弦琴で「須磨」のさわりを弾き、唄は入らなかった由。

 「一絃」琴《松平四山の「当流板琴大意抄」(1841)では、9世紀に在原行平が須磨に流されたとき、庇の板で一弦の琴を作りつれずれを慰めたので須磨琴と呼ばれて一弦琴の祖となったと記している》 『世界大百科事典』
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法隆寺開元琴の模造品
2015-11-21 Sat 08:51
 法隆寺開元琴の模造品は記録上20張以上作られています。岸辺成雄『江戸時代の琴士物語』(2000年.221頁)で現存が確認できるもののみ記します。岸辺先生が調査した琴=◎

製作者       制作年       所蔵先

◎橘蘭谿     寛政8年(1796)   秋山某
◎浦上玉堂①  天明6年(1786)   備前市 正宗文庫
◎浦上玉堂②  天明6年(1786)   布施美術館
◎浦上玉堂③  天明9年(1789)   岡山市林原美術館
◎浦上玉堂④  寛政4年(1792)   酒田市本間美術館
◎浦上玉堂⑤  寛政4年(1792)   会津若松市 法華寺
  浦上玉堂⑥  寛政7年(1795)   諏訪市諏訪神社
  三村友直    安永7年(1778)   水戸 六地蔵寺
  鳥海雪堂    天保6年(1735)   東京 坂田信一 
◎妻鹿友樵    元治元年(1885)   大阪 妻鹿友一
琴匠某               津山市 上原家 (津山 広瀬台山旧蔵)
◎不明                 京都府総合資料館(京都 佐竹藤三郎旧蔵)  
◎不明                 京都今村某
※菅茶山「開元琴歌」の西山拙齋蔵の七絃琴は所在不明

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菅茶山「開元琴の歌」
2015-11-20 Fri 08:02
  序はダメ出しが多いので書き直すことにしました。そこで、江戸時代の漢詩人・菅茶山(1748~1827)の「開元琴の歌」を加えます。茶山は、詩会に参加した際、法隆寺旧蔵開元琴の模造琴の詩題を与えられ、東アジアと我が国の古代中世の文化受容の歴史を詠み込んだ七言七十句を書き残しました。その一部を心覚えに書き留めます。※は注記。

  開元琴の歌。 西山先生の宅に諸子と同じく席上の器玩(きがん)を分じ賦す。余、此を得たり。      菅茶山

先生所蓄亦雷様 先生の蓄(たくわ)ふる所も亦 雷様(らいよう)、     ※西山拙齋の琴は雷様形式
音其古淡貌其妍 音は其れ古淡にして 貌(ぼう)は其れ妍(けん)なり。  ※形状はあでやかだ
余今対此心多感 余 今此れに対して 心に感ずること多し。
長句不覚酔語顛 長句覚へず 酔語顛(すいごてん)するを。  ※呂律が回らず駄句を連ねる
維昔李唐全盛日 維(こ)れ昔李唐全盛の日    ※唐の李王朝
歳修隣好通使船 歳どし隣好を修して使船を通ず。  ※玄宗皇帝時代は三回派遣
滄波浩蕩如衽席 滄波浩蕩(そうはこうとう)として衽席(じんせき)の如く、     ※青海原はねぐらのようだ
生徒留学動百千 生徒の留学 動(やや)もすれば百千。      ※遣唐使の留学生
吉備研究盧鄭学 吉備研究す 盧鄭(ろてい)の学、 ※吉備真備は経学を廬植と鄭玄に学んだ。
朝衡唱酬李杜篇 朝衡(ちようこう)は唱酬(しようしゆう)す 李王((×杜))の篇。   ※阿倍仲麻呂と李白、王維。
此時典籍多越海 此の典籍多く海を越(わた)れるは、
豈止服玩与豆籩 豈に止(た)だ服玩(ふくがん)と豆籩(とうへん)とのみあらんや。   ※日常器具と儀礼祭器
一朝胡塵塞道路 一朝胡塵(いつちようこじん)道路を塞(ふた)ぎ、 ※安禄山の変は胡人による
彼此消息雲濤懸 彼此(かれこれ)消息雲濤懸(うんとうはる)かなり。 ※情報は雲か海か見分けられぬほど過少
鴉児北帰郡国裂 鴉児(あじ)北に帰って郡国裂け、     ※李克用と朱全忠の乱を言う
白雁南渡衣冠殫 白雁(はくがん)南に渡って衣冠殫(つ)く。   ※元の世祖が宋を全滅させたこと
我亦王綱一解紐 我亦た王綱(おうこう)一たび紐を解き、 ※律令制が瓦解し、平安の世終わる
五雲迷乱兵燹煙 五雲迷乱(ごうんめいらん)す兵燹(へいせん)の煙   ※五色の雲も戦火に乱れる
壇浦魚腹葬剣璽 壇浦魚腹(だんぽのぎよふく)剣璽を葬り、  ※壇ノ浦の安徳帝は剣と璽を持って入水
芳河花草埋錫鑾 芳河(ほうが)の花草錫鑾(ようらん)を埋む。 ※吉野川の草花が後醍醐帝の車を埋めた
                                          
『黄葉夕陽村舎詩』前編
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漱石俳句と琴
2015-11-19 Thu 08:54
  『日本琴學史』校正作業は待ったなし。夏目漱石の俳句中、琴にまつわるものは8句と数えた文献がありましたが、昨日、確認したところ、琵琶法師に関する句を除いても十句以上ありました。明治31年の「春雨の隣の琴は六段か」は、八橋検校作曲の箏曲「六段の調」。のち、明治38年(1906)に公刊された習作小説『一夜』にも、季節は初夏の物語ですが、隣から琴と尺八が聞こえてきて、その巧拙を云々するくだりがあります。ただし、自作の漢詩「春日静座」(明治31年(1899))の韻を作中内で引用しており、こちらは琴(きん)。

東隣で琴と尺八を合せる音が紫陽花の茂みを洩れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。…
「蓮の葉に蜘蛛下りけり香を焚く」と吟じながら女一度に数弁を攫かんで香炉の裏になげ込む。「?蛸懸不揺、篆煙遶竹梁」と誦して髯ある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。…
「顔は」と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は疾くにやんで新たなる一曲を始めたと見える。あまり旨くはない。…
「珊瑚の枝は海の底、薬を飲んで毒を吐く軽薄の児」と言いかけて吾に帰りたる髯が「それそれ。合奏より夢の続きが肝心じゃ。――画から抜けだした女の顔は……」とばかりで口ごもる。

 明確に琴(きん)を詠んだ句は、最晩年、大正5年(1916年)の春、「桃に琴弾くは心越禅師哉」で、江戸琴學の創始者で明の亡命僧・東皐心越(とうこう しんえつ、崇禎12年(1639年) - 元禄9年9月30日(1696年10月25 日))が登場するもの。

熊本時代
明治29年(1896年)

素琴あり窓に横ふ梅の影
紅梅にあはれ琴ひく妹もがな

明治31年 (1899)

春雨の隣の琴は六段か
片寄する琴に落ちけり朧月

明治32年(1899年)

梅の花琴を抱いてあちこちす
琴に打つ斧の響や梅の花
槎牙として素琴を圧す梅の影
門前に琴弾く家や菊の寺

小説執筆時代
明治43年(1910年)

君が琴塵を払へば鳴る秋か
冷やかに抱いて琴の古きかな

明治45年/大正元年(1912年)
琴作る桐の香や春の雨

大正3年(1914年)
つれづれを琴にわびしや春の雨
一張の琴鳴らし見る落花哉

大正5年(1916年)
琵琶法師召されて春の夜なりけり
桃に琴弾くは心越禅師哉
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秋山先生に教えていただいたこと。
2015-11-18 Wed 23:43



 秋山虔先生が亡くなられた。最後にゆっくりお話ししたのは、二年前の学習院女子大学の中古文学会であったと思う。二日目の発表終了後、工藤重矩先生の国冬本の報告で、ボクや陣野さん、加藤昌嘉さんが質問していたこともあって、「本文の問題は難しいね。僕は書誌学の専門的な勉強をしてこなかったから」と仰り、貴重書の展観をご一緒して能因本『枕草子』や天福本『伊勢物語』を、あれこれ蘊蓄を傾けながら熟覧していたところ、院生さんたちが遠巻きにそのやりとりを聞いていた。そのまま西早稲田駅に向かい、副都心線での帰り道、「そう言えば、萩谷先生のテレビに出ている息子さん、お父さんに似てきたね~」とにこやかに笑っていらしたのだった。

 はじめて先生とお話ししたのは、昭和63年5月14日、豊島公会堂で行われた母校の学会で「王朝日記文学についての私見」と題して講演され、控え室で『王朝の文学空間』にサインを頂いた時のことだった。メモ用紙に名前を書くように仰り、差し出すと「お名前は何とお読みするの」とお尋ねになった秋山先生に、萩谷先生がボクに代って「さくかず。重箱読みだよ」と答えて下さった。その時の講演は、秋山先生も六十代半ば、その時の洗練された濃密な講演の感銘を、今でも忘れることは出来ない。

 三年前、改装なった五島美術館で『源氏物語絵巻』を見に出掛けたところ、先生がお帰りになるところに出くわした。雨模様だったこともあり、愛車にお誘いして途中までお送りすることにした。ところがどしゃぶりとなり、結局ご自宅までお送りしたのだけれど、カーナビに先生のお宅の電話番号を入力し、ご自宅までの道案内地図が出て音声で右へ左へと指示するシステムに大変驚かれていた。ちょうど、東大国文科蔵『竹取物語絵巻』の影印を刊行する前後だったので、お尋ねしたところ、先生の着任以前の購入で、おそらく市古先生あたりが購入されたのかもしれないとのお話をして下さった。他にも息子さんのお話、同世代の友人で先生が心配な教え子さんの話、執筆中の御本の話など、楽しい時間の話は尽きず、後日、賀状の添え書きに「五島美術館の帰途、忝なうございました。忘れることはございません」とお書き下さった。調べてみると、その時のことはブログにあえて書かなかったと思われ、ちょうど前後して亀鑑先生の書簡の件で池田研二先生と連絡を取っており、その文面の中に秋山先生のお名前が出てきて、2012年11月18 日のこととようやく判明。
 夕方、お亡くなりになったことを知り、先生とお話ししたあの日のことがいつのことだったか、それが気になってあれこれと記憶と記録を辿り返して日を跨いでしまった。

 2009-11-28 何をどう学んできたか。
 この時、潜り込んで拝聴していたところ、秋山先生に見つかってしまい、「上原さん は、忙しい人だからこんなところまでこなくていい」とやさしく肩を叩かれた思い出があります。

2012-12-1 紫式部学会@東京大学2012
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