物語学の森 Blog版

このBlogは、私が物語研究の途上で出会った様々な発見や、物語をともに学ぶ人々との出逢いを綴ったものです。ごらんのみなさんにも物語文学の深遠なる森の如き世界の一端をお知りいただければ幸いです。

『枕草子』「有明の月」の定義。

『枕草子』
  月は、有明の、東の山際に、細くて出づるほど、いとあはれなり。<集成・第二百三十五段>

 「有明の月」は陰暦16日以降の月の謂で、必ずしも明け方過ぎ、日の出以後である必要はなく、「夜深き有明の月」なる表現も存在する。ところが、辞書的には、

  陰暦十六夜以後の月。夜が明けても、なお天に残っている月。ありあけ。ありあけの月夜。『日本国語大辞典第二版』

とあるように、「夜明け」に月が残っているのは必須要件と書かれている。ところが、先の『枕草子』の用例は、「東の山際」だから、朝に月が登らなければならない。以下、『枕草子』に適合する「有明の月」の月出入、日の出の時間を示す。

│ 2015 月出(方位) 月入(方位) 月齢 日出(方位)-旧暦換算)10月│
│10 7 (旧暦8 25) │0:35(93) 13:41(264)│ 23.8│5:55 (95) │
│12 8 (旧暦8 26) │1:37(98) 14:14(260)│ 24.8│556 (96) │
│12 9 (旧暦8 27) │2:24(79) 15:31(279)│ 25.8│5:57 (96) │
│ 2016 月出(方位 月入(方位) 月齢 日出(方位) -旧暦換算)9月│
│926 (旧暦8 26) │1:37 (88) 14:02 (270 )│24.4│5:48 (91) │
│927 (旧暦8 27) │2:31 (92) 14:34 (265)│16.9│5:49 (91) │
│928 (旧暦8 28) │3:25 (97) 15:05 (261)│17.9│5:49 (92) │

 となると、小林賢章氏『「暁」の謎を解く-平安人の時間表現』角川選書、2013年が引用する
 顕昭『顕秘抄』
 「いさよふ月」
 下旬をばおしなべて有明、おほかた十四十五日より月のいらぬさきに、夜のあくるをばみなありあけの月といふべかりけれど、くはしくいへば二十日の後をいふべき也
 
 と、「夜明け」を必須要件とせずに、陰暦下旬の「月」をいうものと解するのが穏当な見解となる。

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桃も開花


 鉢植えの桃の花が今年も咲きました。
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弥生上巳、今年新暦3月7日



 昨年も雛について『枕草子』「うつくしきもの」を記しました。写真は暮れに國學院で頂いた「人形-ひとがた」。
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 平安時代、上巳(節句)の日には、川に禊のための人形(ひとがた)流しをするようになった。古代中国文献に人形(ひとがた)を流す話は見当たらず、これは我が国固有の文化とも言えるもの。つまり、雛はへ、雛形の意で、現代の雛人形、雛壇飾りは江戸時代に始まる。
 この雛流しは、本来、写真のように紙を切り抜いただけの人形(ひとがた)が、だんだん、綺麗な紙人形となり、のち、流さずに飾っておく人形となった。このように本来は、本人に変わって厄を引き受ける身代わりの人形、それが雛人形。身代わりの人形(ひとがた)に託して、長命で豊かな日々がこの一年(そして生涯)送れますように、という親の願いを込めたもの、それが豪華絢爛な雛飾り本来の姿である。

 諏訪市博物館の「清昌院の雛人形」は今年も展示しているようです。駒ヶ根出張があるので途次都合をつけて展観予定。清昌院は松平定信の娘・烈姫。高島藩8代藩主諏訪忠恕に嫁いだ際の輿入れ道具と伝わるもののひとつ。この中には古典籍や『竹取物語絵巻』もあります。
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古瀬雅義著『枕草子章段構成論』

 著者から拝領。ありがとうごさいました。『枕草子章段構成論』帯には以下のようにあります。

清少納言は、『枕草子』の本文をただ筆に任せて記したのではない。あらかじめ綿密に考案した「設計図」をもとに推敲しながら各章段を書き、それが好評を博していたのである――。

 類纂本にも言及はありますが、著者は一貫して現存三巻本章段を読み解く営みを続けてきました。本書には、主要章段の分析を網羅的に配して、自身の研究史の一里塚となさったようです。みなさん、御高架をお願いします


 
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空を見上げる清少納言

清少納言邸宅想定図

  秋は夕暮れ。夕日のさして山の端 いと近うなりたるに からすの寝 どころへ行くとて 三つ四つ 二つ三つなど 飛び急ぐさへあはれなり。  『枕草子』「春はあけぼの」段
 夜深き月の明らかにさし出でて、 山の端近き心地するに、 念誦いとあはれにした まひて、昔物語したまふ。
  『源氏物語』「椎本」巻
 平安京と宇治の西に山がないことから、このふたつのテクストを再検討し、「月に照らし出された山の端が間近に見えて、思いがふと過去に帰ってゆく」と解釈した論文が話題。ただし、『枕草子』の場合は、清少納言が見上げた空の位置が、定子薨去後の「山里」からの風景であることが顧慮されていません。山里とは、清原元輔所有の桂山荘Dと二番目の夫・藤原棟世の月の輪山荘のふたつが想定されます。このうち、後者は、定子の眠る東山にある泉涌寺境内A説が広く知られていますが、ここは藤原道長・頼通の法性寺所領圏内につき、領有そのものが疑われるところ。愛宕山の中腹・月輪寺付近とするB説、さらに、愛宕山中腹で隠棲するにはあまりにも山奥であるとして(標高550メートル)、坂下西の月林寺C説(曼珠院西)が提案され、今のところこれが最新の説。B説は山稜部で「山里」であることに違いはありません。ただし、C説はD説の桂山荘から遠いことと、「西に高い山がない」こと、山陵とは言い難いことが難点ではあります。
 これらの論拠となる 『清少納言集』『公任集』『元輔集』の諸文献を総合すると、定子薨去後の動静は以下のように考えられています。

 長保三、四年(1001.1002)頃、 夫・棟世の任地・摂津に過ごす。
 長保四、五年(1002、1003)頃 父・元輔の桂山荘にて過ごす
 寛弘元年(1003)頃 棟世の隠棲する月の輪でともに過ごす  「清少納言が月の輪に帰り住む頃」『公任集』
 
 『枕草子』もこの頃まとめられたとされています。テクストに何度も出てくる「山里」で、清少納言は空を見上げて思いを綴ったと考えれば、夕日の差す「山の端」は、西にそそりたつ嵐山であり、愛宕山であることになります。

 また、七月の夜深き宇治の「山の端」については、今年の新暦換算の八月の月の出入、日の出没を方位とともに示してみると、月は東から昇り、東北にある「山の端」を「月が照らす」のであればよいことになります。諸注釈が「さし出づ」を「月が沈む」と意訳する当否は、別に書くことにします。

2016年8月京都 月出・方位 月入・方位 日出 日没
14日(旧暦7月12日) 15;25(113) 1;06(247) 5;16 18;47
15日(旧暦7月13日) 16;16(113) 1;55(247 5;17 18;46
16日(旧暦7月14日) 17;04(108) 2;49(248) 5;17 18;44
17日(旧暦7月15日) 17;50(111) 3;48(250 5;18 18;43
18日(旧暦7月16日) 18;33(104) 4;50(253) 5;19 18;42
19日(旧暦7月17日)19;14 (99) 5;54(258) 5;20 18;41 
20日(旧暦7月18日) 19;54 (94) 6;59(263) 5;20 18;41

 「夜深きほどの月」は『紫式部日記』にも見えており、これは日の出以前、しかも格子を上げる「辰の一刻」より、かなり早い時間であったことが判ります。

 まだ 夜深きほどの月さし曇り、木の下 をぐらきに、「御格子参りなばや」「女官は、今まで さぶらはじ」 『紫式部日記』五壇の御修法 
※ 「凡そ毎日辰一刻(7時)格子を上ぐ、…戌の一刻(19時)格子を下ぐ」『侍中群要』第一

 かくして、「山の端」を、夕日と月が「間近で照らし出す」ことで、なんら問題ないように思われます。いかがでしょうか。

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