物語学の森 Blog版 高木文
荷風のはなしを少々
2015-11-10 Tue 06:44



 以前、紀伊徳川家・南葵文庫の主事・高木文の動静を追って、『断腸亭日乗』を読みました。火曜日には、荷風の話を少しばかりしなくてはならず、予習していたところでした。そしたら、荷風の血縁にあたる方が壇上にいらっしゃいました。こういうときには同席しないと窺っていましたが、禁を破らねばならぬほどの大事な席と言うことでしょう。『敗戦日記』を本棚から取り出して来ました。

 あるレポート提出日。ポータルサイトに貼り付けてくれれば、提出日時も分かるようになっており、こちらがダウンロードして印刷するシステム。締め切りに遅れると赤く表示され、コメントも付けられます。手渡ししてくれた女子学生がいました。二通作って、一通は特大活字。こちらは、気がつきませんでしたが、やはり視界が狭くて立ち居振る舞いの中で、苦労しているふうに見えていたのか、心遣いが身に沁みた、蕭蕭と雨の降る夜でした。


 
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關戸家定家本『源氏物語』「行幸」巻の落札額
2012-09-22 Sat 15:16

高木文「賜架書屋随筆」『書物展望』第五巻八号、1936年(昭和10年)8月

此春關戸の入札に源氏行幸巻一帖は寛永七年に烏丸光廣が定家卿の眞跡と奥書してゐる、いつもの筆跡と異る様に思はれたが、墨付卅九枚で三千五百圓であつた。松浦伯爵家の為家の浮舟の帖、頼政の總角の帖一ツ橋徳川家の讃岐の乙女の帖等、最近には色々と出て来る。典籍として一番高値のものは西本願寺の卅六人集の内、伊勢、貫之の二帖で何十萬圓は別として、西條松平家の貫之の堤中納言集三萬四千圓、行成の倭漢朗詠集二冊二萬七千圓、赤星家の俊頼の古今集序八萬二千圓、行成の朗詠集八萬圓、秋元家の西行齋宮集二萬七千圓、古河家の萬葉集は何萬圓だつたか覺へない。古筆典籍の高値には驚くが愛書家の氣を吐くものだ。いかに西鶴本だ古活字本だ宋版だといふも何萬以上の話を餘り聞かないから、其等の方面の古書も高値になつてよいし此後流行し高値を呼ぶは自筆本と寫本の一部だらう。之こそ一本だから。

註 為家本「浮舟」巻、頼政の「總角」巻は、名古屋市蓬左文庫、讃岐の「乙女」巻は桃園文庫を経て、天理図書館蔵。卅六人集の『貫之集』、『伊勢集』は1929年(昭和4年)分割されて「武蔵野女子学院(現・武蔵野大学)」の資金に当てられた。 
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高木文『泰山荘之記』昭和11(1936)年
2011-08-28 Sun 08:28
 欧州留学後、史跡保存運動の指導者でもあった紀州家当主の徳川頼倫は、東京神田五軒町 (現在の千代田区外神田)の松浦武四郎旧邸を訪れた際、全国の友人、知人から寄進された神社仏閣や歴史的建造物の古材を使って造られた「泰山荘の一畳敷」(明治19(1886)年建造))に目を留め、これを保存するため、飯倉の南葵文庫裏庭に移築しました。昭和天皇との婚礼を控えた東伏見良子女王を迎えて落成記念式典が挙行されています。関東大震災前、渋谷代々幡町代々木字上原 (現在の渋谷区上原)へ移転していた紀州徳川邸内に再び移築されました。

 1925年  (大正14年)、頼倫の死後、彼の設計に沿って「高風居」と名づけられた六畳の茶室が造られ、一畳敷はそれに取り付けられました。

 1934年 (昭和9年)日産財閥の重役職にあった山田敬亮が三鷹の野川沿いの高台を購入。富士山を臨むこの絶景の地に、東京裏千家の師匠、亀山草月の監督のもと、5年をかけて、数々の歴史的建造物を集めた「泰山荘」と呼ばれる別荘を移築し、これを記念して昭和11(1936)年、高木文の『泰山荘之記』和装本が造られたわけです。

 1940(昭和15)年、中島飛行機会社社長中島知久平に売却。
 1950(昭和25)年、国際基督教大学の所有となり、現在に至ります(現在、補修工事中)。


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高木文 随筆 二『繪島の生涯』(聚芳閣、1925年)
2011-08-27 Sat 10:31

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 高木文の第二随筆集は、江戸大奥最大のスキャンダル「繪島・生島事件」(1714)を考証したもの。これは、繪島(1681-1741)が紀伊中納言綱教の簾中鶴姫に奉仕していた「於美與」であったことが、執筆の機縁となっているようです。繪島は簾中逝去後、桜田御殿の甲州家宣の愛妾おきよの方に仕えて、家宣が綱吉の後継として江戸城移御に伴い、お供を成して大奥に入っています。この事件は、幼少の将軍を擁して権勢を振るっていた月光院や側用人間部詮房らに対する反感から生じたといわれますが、大奥の風紀が乱れていたこともまた確かなことであったようです。大奥・月光院の嘆願で死罪を免れた繪島が流された高遠には、昨年も出向いて、繪島屋敷も見学していましたが、ここは実質座敷牢で、見張りがいて外出などままならぬように解説されてありました。ところが、この書では内藤家の家来某から『朱子類語』を差し入れられ、遠照寺にも出掛け、日耀聖人の法話を聞き、聖人と囲碁の対手もし、繪島の間があったとする地元の伝説を記しています。
 ちなみに、繪島の出生地は謎で、一説には吉原の遊女であったとされるものの、年寄となって四百石を賜っています。高木文は、今でも交通不便なこの地に大正時代には足を運び、墓の写真まで載せていますから、かなりの入れ込みよう。ここから繪島研究が始発したと言っても良いでしょう。写真下は奥付と「予の見たる重なる所載見聞書目」すなわち、参考文献4頁。OPACのない当時としては望み得る最大の文献を網羅したと言えます。何より「国史大事典」の記述は本書に基づくもので、その正鵠な調査がなされていることが驚きです。
 内藤藩の江戸屋敷は今の新宿御苑に当たり、「桜」の繋がりもあって、旧高遠町(伊那市高遠)は新宿区と姉妹都市の関係にあります。

 繪島略年譜
 天和元年  1歳 生                            将軍・綱吉
 元禄十六年 23歳 紀州鶴姫に仕ふ
 宝永元年  24歳 4月鶴姫卒 甲州家宣の愛妾おきよに仕ふ
          12月愛妾に追従して本丸に入る
 同 二年  25歳 御使番となる
 同 六年  29歳 年寄となり、四百石を賜る                 将軍・家宣
          愛妾山里御殿にて鍋松を生む
 正徳二年  32歳 大年寄に進む
                                      将軍・家継
          10月21日愛妾落飾して月光院と称し吹上御殿(山里)に移る。
 同 三年  33歳 4月25日 山村座芝居見物
          11月中村勘三郎座芝居見物
 同 四年  34歳 正月12日増上寺に御代参帰途山村座芝居見物
          2月詮議
          3月罪ありて内藤駿河守へ引き渡さる 26日江戸発足
          4月1日 信州高遠着   
 同 七年  42歳 5月 追放の者不残御赦免                将軍・吉宗
 寛保元年  61歳 2月病む
          4月10日卒
          同25日江戸より検使来る、此日蓮華寺に葬る。 

 江戸出立の際に詠んだとされる表紙の和歌「浮世にはまた帰らめや/武蔵野の/月の光りの/かけも/はつかし」は、東洋大学蔵の阿仏尼本『源氏物語』の「上掛け」の筆蹟に通い、やはり高木文が下賜されたときに、その来歴を記したもののようです。
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クールダウンの日々。
2011-08-25 Thu 07:20



 八ヶ岳、信州を二度回り、京都と来て家で過ごすのは久しぶり。何をするにもスローペースで、一日一善ではありませんが、一日一行、一日一通話調査という感じ。先日、大学図書館に出掛けたので各種『人名辞典』で高木文について調べたけれども、ついぞ見つからず。十年ほど前に復刊した『明治全小説戯曲大観』の版元さんに著作権継承者を尋ねてみましたが、分からないとのこと。ここまで調べて分からないのだから、仕方ないのかも知れません。
 
 写真は、先日、三谷家にあった「会報」創刊号を頂戴したもの。40年と言えば、人生の半分。次の40年後も現役かどうかは神のみぞ知る。とは言ってもそれには節制しないと。と言うわけで、ともあれジムで汗を流しました。

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