物語学の森 Blog版 源氏物語の巻
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このBlogは、私が物語研究の途上で出会った様々な発見や、物語をともに学ぶ人々との出逢いを綴ったものです。ごらんのみなさんにも物語文学の深遠なる森の如き世界の一端をお知りいただければ幸いです。
散位時代の藤原為時は困窮していたか。
   宇治十帖と作者の論文はいちおう擱筆。紙幅の関係でカットした引用と覚え書き。紫式部が源倫子家乳房として出仕することになる前提として、以下のようにある。

 為時は花山天皇の時代に蔵人式部丞に任じられ、天皇の近侍になる光栄に浴したが、まもなく花山天皇が藤原兼家一門の謀略に掛かって、在位二年間で退位するや、その後十年の長きにわたって散位のまま放置された。その間、文人として尊重されたが、無官となれば職田を失い、俸給は従五位下の位階につく位田八町(『令義解』)と若干の位禄・季禄が主たるもので、祖父兼輔の遺産があったから日常生活に不自由はなかったにしても、貴族の体面を保つためには経済的な余裕などあまりなかったであろう。当時の申し文には、たとえば、源順が散位十一年後、天元三年(九八〇)正月に提出した文章に、「当干年老家貧歎深愁切」(『本朝文粋』第六)とあるような貧困を歎く文句が多く、為時自身も、これよりのち、二度目の散位時代に、「門閑元謁客」(『本朝麗藻((×草))』巻下)と題する詩を賦して、身の不遇と邸宅の荒廃を嘆いている。表現に誇張があったとしても、それが説得力を持つには誇張するに足る実質がなくてはなるまい。『江談抄』第五・詩事に伝える、大江匡衡が藤原行成のもとに送った書には、為時を含む六人の詩人の名を挙げて、「故主甘貧」と記されているが、十年間にわたる散位時代は、官吏為時にとって貧に甘んじて風流韻事に遊ぶには、あまりにも長すぎたと思われる。

 徳満澄雄「紫式部は鷹司殿倫子の女房であったか」「語文研究」六二号、九州大学国語国文学会、1986年12月
 
 正一位の位田八十町90ヘクタール、従五位の八町は9ヘクタール。女はその2/3。その「位田の耕営方法は、多くは班田農民の賃租(土地の借耕)によったと思われるが、その場合、田主の純収益は、賃租の地子(穫稲(かくとう)の20%)から租(穫稲の3%)を差し引いた残り、すなわち穫稲の17%であった(村山光一)」「日本大百科全書」 

 現在の水田の場合、普通の米で、1反(10アール)当たり・10俵、1ヘクタール(1町)、100俵、6000kgで豊作とされる。
 となると位田八町の米の収穫は54,000kgで、その田主の純収益17%は 9180kg。現行の米は農林水産省の平成28年度の取引価格が10kg換算、2,385円、amazon で10kg、3,200円~4,400円前後だから、2,385円換算で、2,189,436円。
 ところが、『延喜式』「禄物価法」では、下記のように規定されている。
 
 絁=稲30束、綿一屯=稲3束、鍬一本=稲3束、田地一反=稲72束。
 稲一束は現代の米二升に相当 (現代の米二升(3㎏)は800円換算)

ちなみに従五位の官僚は稲8973束。従五位の年収は358万円換算となる(山口博氏は従五位の山上憶良で1400万円とする『日本人の給与明細 古典で読み説く物価事情』角川ソフィア文庫、2015年)。ちなみに、正一位はその十倍なので、位田収入だけで約三千万円。散位の場合は位禄がないので満額ではないが、「為時は「困窮」の生活とは必ずしも云えないように思われる」と書いたものの没。

2017-11-12 Sun 08:51
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「桃の花」詠の特殊性
陽明文庫本 『紫式部集』
   桜を瓶に立てて見るに、とりもあへず散りければ、桃の花を見やりて、
36 折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひ隈なき 桜惜しまじ
     返し                        
37 桃といふ 名もあるものを 時の間に 散る桜にも 思ひ落とさじ
  ※ 36 実践女子大学本「挿して見るに」、37 実践女子大学本「返し、人」

廣田收・上原共編『紫式部と和歌の世界-新訂版』武蔵野書院、2012年の廣田收先生の注解は以下の通り。

桃の花-百(もも)という長寿を意味する名。『古今集』以後「桃」が歌われることは珍しい。桃を紫式部に、桜を宣孝に喩える説(『叢書』『(和歌文学)大系』)も。上原作和は「もも」を紫式部の幼名という。「新婚時代間もなく、桃の節句を控えての贈答」(『新大系』)

廣田訳 桃の花よ、折ってみれば散るさまがより優れていてほしい。思いやりのない桜を惜しむことなどしない。
廣田訳  百というめでたい名前もあるのだから、時の間に散るような桜には思い落とすことはしないでおこう。

 「桃」は、西王母が漢の武帝に、3000年に一度実のなる不老長寿の桃の実を献じた故事(『漢武内伝』)や、陶淵明『桃花源記』の「桃源境」の伝説から長寿の隠喩であり、「桜」は、はかなく短命であることの隠喩であろう。

西本願寺本『平兼盛集』「巻末佚名家集」
  又、三月三日、桃の花遅く侍りけるとし
110 わが宿に 今日をも知らぬ 桃の花 花もすかむはゆるさざりけり
                           (はなもすかむははゆるさらけり 本まゝ) 
 これは三月三日の上巳の節句には、往時、曲水の宴が催された際、酒に桃の花を浮かべて飲む風流韻事のあったことが念頭にあろう。古くは『万葉集』や漢詩の「題詠」に「桃花」は見られるものの、この時期に和歌に詠まれるのは、紫式部と娘に共通する、和歌史的にも特筆すべき方法だと思われる。

2017-11-11 Sat 08:34
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やはり紫式部の幼名は「もも」であろう。
 西本願寺本『平兼盛集』「巻末佚名家集」には、「藤式部」「亡くなりて」と紫式部の亡くなったことが記されている。これは紫式部が越後守として赴任していた父為時に宛てた書簡を見た娘・賢子がその本文の脇に書き付けた和歌。109番歌の「人のもと」は、賢子の恋人で、藤原頼宗(岡一男説)、藤原定頼、あるいは公信(萩谷朴説、、久下裕利説は定頼)などがあり、ここから没年を長和三年二月(1014年、岡一男説)、寛仁三年年内(1019年、萩谷朴説)、寛仁四年説(1020年、平野由紀子説、後掲)と三説がある。ただし、賢子と和歌を詠み交わした相手を賢子と恋愛関係にある必然性はないとして、この歌集はかつての「宰相の君」で、後一条天皇(敦成親王)乳母であった藤原豊子(美作三位)のものとする推定もある(森本元子説)。久下説は、歌集を藤原豊子のものとする森本説を支持し、同じ頃、妹を喪った定頼に宛てたものと見る。

    同じ宮の藤式部、親の田舎なりけるに、「いかに」など書きたりける文を、式部の君亡くなりて、そのむすめ見侍りて、物思ひ侍りける頃、見て書きつ。
107 憂きことの まさるこの世を 見じとてや 空の雲とも 人のなりけむ
    まづかうかう侍りけることを、あやしく、かの許に侍りける式部の君の
108 雪積もる 年にそへても 頼むかな 君を白根の 松にそへつつ
   この娘の、あはれなる夕べを眺め侍へりて、人のもとに「おなじ心に」など思ふべき人やはべりけむ
109 眺かむれば 空に乱るる うき雲を 恋しき人と 思はましかば」
     又、三月三日、桃の花遅く侍りけるとし
110 わが宿に 今日をも知らぬ 桃の花 花もすかむはゆるさざりけり
                           (はなもすかむははゆるさらけり 本まゝ) 

 110は、下句に本文の乱れがあるものの、以上にように校訂し、「花もすかむ」は桃花の宴に際して、酒に桃の花びらを浮かべる風流韻事と解する。桃を愛した母が突然亡くなり、我が家(賢子邸)の桃の花はまだ咲かないので桃の酒を飲むことも許されない、となる。これは『紫式部集』の宣孝との「桃」のやりとりと照応する。やはり紫式部の幼名「もも」説を再度提示しておきたい。
 
  陽明文庫本 『紫式部集』
   桜を瓶に立てて見るに、とりもあへず散りければ、桃の花を見やりて、
36 折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひ隈なき 桜惜しまじ
     返し                        
37 桃といふ 名もあるものを 時の間に 散る桜にも 思ひ落とさじ
 ※ 36 実践女子大学本「挿して見るに」、37 実践女子大学本「返し、人」

 なお、紫式部の生存を確認できる最終記事は、権大納言兼右大将藤原実資とこの三月に出家した藤原道長の出家に関する情報交換をしているものである。
『小右記』寛仁三年五月十九日条
  参内 宰相(資平)乗車尻、諸卿不参、参母后御方(彰子)、相逢女房、有仰事等、是入道殿(道長)御出家間事等也。

 この記事から平野由紀子説は、寛仁三年五月には存命だった紫式部を、「この歌群のように三月三日に娘賢子がしのんでいる」詠歌とし、「紫式部の没年の上限は、寛仁四年と考えたい。下限は万寿二(1025)年とみる」とする。万寿二年は、娘の賢子が親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その 乳母となった年。これが現在のところ、紫式部伝記研究の最新の説。

参考文献
岡一男「紫式部の晩年の生活附説 紫式部の没年について 『平兼盛集』を新資料として」『増訂 源氏物語の基礎的研究』東京堂、1966年
萩谷朴「解説・作者について」『紫式部日記全注釈』角川書店、1973年
森本元子「西本願寺本兼盛集付載の佚名家集―その性格と作者」『古典文学論考 枕草子 和歌 日記』新典社、1998年、初出1982年
平野由紀子「逸名家集考―紫式部没年に及ぶ」『平安和歌研究』風間書房、2008年、初出2002年。
上原作和「紫式部伝」『人物で読む源氏物語』勉誠出版、2005~2006年、ならびに「源氏物語の時代」『光源氏物語傳來史』武蔵野書院、2011年
久下裕利「宇治十帖の執筆契機─繰り返される意図」「後期物語創作の基盤─紫式部のメッセージ」「大納言道綱女豊子について─『紫式部日記』成立裏面史」『源氏物語の記憶―時代との交差』武蔵野書院、2017年、初出2015、2012、2017年

 11月9日は1917年生まれの萩谷朴先生、生誕百年の日に記す。


2017-11-10 Fri 08:59
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『法苑珠林』「剃髪部」「出家作法」と伝源信編『出家授戒作法』
『法苑珠林』「剃髪部」「出家作法」
 初欲出家依律先請二師、(略)又『清信士度人経』云、若欲剃髪先於髪処、香湯灑地、周円七尺内四角懸幡、安一高座擬出家者坐、後復施二勝座二師坐、欲出家者着本俗服、拝辞父母尊親等訖、口説偈云
  流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者
説此偈已脱去俗服
  ※ 『清信士度人経』は、中国で成立した偽経。

 天台僧・良忍(1073~1132年)編・曼殊院本『出家作法』
  次出家者拝氏神、国王、父母等
叡山文庫真如蔵本『出家作法』
 次出家者着俗服拝内外氏神国王父母等、次戒師唱云、流転三界中…
 
 『出家授戒作法』
先七尺内四角懸幡、於中間設三勝座、一和上料也、一出家人格也、一教授人料也、
次和上持香水灑浄四方、
次出家者、礼四方、各三度 始自東、次南、次西、次北、
次聖朝、次南外、次氏神、次父母、
次剃除髪而被法服、但頂髪残三五行、暫不着袈裟、
次三礼 法用如例、大毀形唄 或如来唄、次薬師散華、
次表白事由、(略)
次出家者和上問云、我今除次頂髭髪、許否 答許三返、頂髪剃髪頌云 次第ヲ取ル
 流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者
次出家者、手捧袈裟和上三度置出家者頂上、即着衣、与法名頌云 (略)

『平家物語』巻十―十四「維盛出家」 ※維盛(?~1159年)
…中将((平維盛))御涙せきあへず。「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」と三度唱へて、すでに剃られ給けり。「北の方に変らぬ形を今一度見え奉りてかくもならば、おもふことあらじ」と思し召すぞ罪深き。中将も重景も同年にて、廿七にてぞおはしける。 (延慶本)


2017-11-04 Sat 10:01
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平安後期貴族女性の出家記事
  宇治十帖の論文佳境。平安後期貴族女性の出家記事を調査した覚書。

 『殿暦』康和四年(1102)正月廿六日条 
廿六日、壬午、(略)晴、北政所(源麗子)還御泉殿 宮御同年(藤原寛子)、北政所御出家、其儀先拝奉氏神、次御衣裳袈裟を着給、次山座主仁覚申上御出家之由、次同山座主(ナシ)奉剃髪御頭、其問斉尊律師唄 鬼形唄也、次彼座主奉授戒、々了布施。

『中右記』嘉承二年(1107)九月二十一日条 
晩頭参一条院、令始参堀河院、今夜中宮(篤子内親王)御出家事 御年卅八、其儀、(中略)先令拝氏神云々八幡、戒師作法之後、暫垂庇御簾、令始御出家事 法印付母屋御簾奉制御髪者、次又上庇御簾奉授戒、尼御装束着御、及深更了、給布施。

『長秋記』大治四年(1129)七月二六日条
 廿六日、壬寅、晴、皇后宮(令子内親王)有遁世事(略)、次戒師(覚猷)啓白、次依戒師申先拝伊勢神大宮方、次戒師可拝給氏神之由申、宮已為内親王、不可有氏神歟、但外祖父藤氏也、可称氏神歟、故母中宮前関白師実養娘也、仍堀川先朝養方着給錫紵、次拝国王及父母墓方給、次戒師頌流転三界中三反、次宮居拝戒師給、脱本御服着給法衣、此間簾中女房等有悲泣気(略)、事了礼拝、此後戒師取髪剃奉剃御頂。

  ※戒師・覚猷は天台座主を務めた鳥羽僧正。『鳥獣人物戯画』作者。

2017-11-03 Fri 10:07
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