物語学の森 Blog版 池田亀鑑
池田亀鑑17歳の懸賞作文「我が好む英傑」『日本少年』大正元年10月号
2018-04-28 Sat 05:52

池田亀鑑17歳

 池田亀鑑17歳の懸賞作文「我が好む英傑」『日本少年』大正元年(1912)10月号を入手。バックナンバーの相場より割高感があったものの、池田亀鑑の当該頁に付箋があり、よく勉強なさる古書肆だと歓心。池田亀鑑が鳥取師範学校1年次と思われる17歳の時の投稿で、こうした投稿の文才が認められて、実業之日本社編集部との関わりが発生したことは、長野嘗一「小説家・池田亀鑑」に詳しい。

さて高師時代で最も注目すべき事項は、ジァナリズムと密接な関係が生じたことであった。実業の日本社から出ている雑誌には、それまでもたびたび投稿が採用されたことはあったけれど、それらは短い作文にすぎなかった。ところがその短い文章が、「日本少年」の主筆有本芳水の眼にとまり、さらに「少女の友」の編集長岩下小葉に伝えられた。「日本少年」と「少女の友」は、ともに実業の日本社から刊行されていた姉妹雑誌である。小葉は芳水から池田亀鑑という能文の青年があることを聞くや、早速彼の書いた文章をいくつかよんでみた。そうして「これはいける」と直感した。この直感が後日「少女の友」に飛躍的な発展をもたらし、実業の日本社を肥やし、池田芙蓉という人気作家を生み出したのだから、雑誌の運命はまさに編集長の眼力一つにかかっているといってよい。岩下小葉は本名を天年といい、早稲田の英文科を卒業して実業の日本社に入り、「少女の友」の編集をするかたわら、自分でも少女小説の観訳などをしていた。体躯堂々、太っ腹の、いかにも明治ジアナリストの生き残りといった感じの男であった。しかしそのころの「少女の友」や「日本少年」はまだ薄っぺらの貧弱な雑誌にすぎなかった。

 その岩下小葉が「これはいける」と唸らせた作文が以下のもの。また、この尼子氏一統の家臣・山中鹿之助への関心は、のちに「青葉の夕霧城」(青山櫻州「日本少年」昭和3年7月―昭和4年12月)に結実する。

特別懸賞作文               選者 倉田濱荻先生
 二等
我が好む英傑                鳥取県 池田亀鑑
山陰の麒麟児と謳はれ、尼子十勇士の花と称へられて当時驍名轟轟たりし英傑山中鹿之助。私は彼を好む一人である。尼子の運命は実にその双肩にのせられてあつた。よくその覇を中国に振ふを得た時は、即ち彼の全盛時代であつた。当時その勇姿の向ふ所、如何なる敵も散つた。如何なる城も落ちた。又尼子氏が興亡幾多、将に滅亡の悲運を見んとした時は実は彼が悪戦苦闘の時代であつた。刃の血を払ふ間もなく引き続きの戦闘、幾十倍の毛利の軍にあたつては、衆寡敵せず、つひに悲壮な最後を遂ぐるに至つたのである。ああ孤城の月淡き春の宵、野営の夢寒き秋の夜、主家のため彼は幾たび血涙に鎧の袖をうるほしたらううらみつもる毛利の軍を打ち破らずして倒れし彼の心中はさぞ無念であつたらう。死にたくはなかつたらう。後の最期は涙の最期である。
ああ彼はその流星の如き短き一生を「主家の為」といふ四字の精神をもつて、悪戦苦闘の間に送つた。実にすぐれたところがある。えらい所がある。
風蕭蕭として落日冷やかなる時、因州鹿野の幸盛寺に、彼の英魂の眠れる跡を訪うて、云ふべからざる感慨は私の胸をうつたのである。

 評 幸盛に対する同情が、君を謳つて幸盛寺をとむらはせ、更にこの名文を作らせた。

  その「青葉の夕霧城」(青山櫻州「日本少年」昭和3年7月―昭和4年12月)は近刊の『もっと知りたい池田亀鑑と『源氏物語』』第四集に第7回分を掲載予定。解説に掲げた、作者の序文を引く。

 “作者より―――
長篇日東男児小説は、作者が生れてはじめて筆を執った空前の長篇少年小説であります。この小説は熱血、愛国、冒険、怪奇、探偵等々あらゆる型の小説が綜合された交響楽であります。
日東男児小説は、前後二部に分れます。第一部は「日東男児は如何にありしか」を、過去の伝説的事実の中に求め、第二部は「日東男児は如何にあるか」を、現代の空想的事実の中にゑがかうと思ひます。過去から現代に亘るこの日東男児小説は、これから三年つづくか、五年つづくか予定の出来ない長篇小説であります。
日東男児小説第一時代篇「青葉の夕霧城」は、日東の健男児と美少女との奇しき運命を主題とし、忠臣、奸賊、義人、妖女、怪僧等が、乱麻の如く入り乱れて飛躍する中に、侠勇少年の崇高なる信念と、燃ゆるが如き意気と、花よりも麗しき美少女の清らかなる純情と、火の如き情熱とか、いかばかり輝やかしき火花を散らしたかを述べようと思ふのです。
少年諸君!どうかこの物語の勇ましい主人公と、美しい女主人公とを、いつまでも愛して下さい。
   落花白き日         青山櫻洲
                 富田千秋(挿絵)“
 
 例によって、時代がかった美文調であり、活動弁士風の口舌である。舞台は山陰・出雲の地、作者の故郷・島根県伯耆地方に近く、少年時代の郷土愛から、親しく学んでいた戦国時代の尼子・毛利氏歴戦の帰趨から構想された戦国時代長編小説と言うべきであろう。十六歳の青年・尼子四郎時久(一三八一~一四三七)が死守しようと奮戦する夕霧城(月山富田城・島根県安来市)に、老臣・和泉介宗高の一子で、この物語の主人公・五郎宗春は稀代の剣客として知られていた。女主人公はその妹・浅香姫。十五歳の美少女ながら、父や兄と力を合わせて主君・時久のために献身的に毛利軍と戦いながらも、運命に翻弄される。毛利氏に内通する郎党や、隙あれば奸計を働く盗人たちによって、辛酸を嘗め尽くしたあげく、これらの敵を倒してお家再興に成功するまでの壮大な戦国合戦絵巻となっている。

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紫式部学会『源氏物語連続講座 vol.1』1950年
2018-03-29 Thu 06:41
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   架蔵。紫式部学会が昭和25年に行った『源氏物語』の連続講座。発行所・紫式部学会、栗山つね。69頁。会長・文学博士・藤村作、文学博士・久松潜一、文学博士・池田亀鑑序文。本編は、池田亀鑑の「連続講座」。夕顔物語までそれぞれ在記者とあり、速記録だと思われる(ただし、紫上物語、末摘花物語は在記者とはなし)。この作中人文物論は、翌年の『新講源氏物語』上下巻、至文堂、1951年に発展する。
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池田亀鑑記者「天才(芥川龍之介)の死は若き人々に何を考えさせたか?」
2017-10-01 Sun 07:41


「婦人世界」昭和2年9月号、実業之日本社

 実業之日本社社員であった池田亀鑑(1896-1956)は、文壇この年最大の事件・芥川龍之介(1892-1927)の自殺(7月24日)に際して、他誌に先駆けて無署名の特集を組んだ。亀鑑自身も東京高等師範學校時代文藝部であったことも影響してか、原稿を集めやすいと云う計算もあろう、後輩の舟橋聖一(1904-1976)ら文藝部員に原稿を依頼している。なお、舟橋聖一の遺した書簡一千通には池田亀鑑のものも含まれているという。
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○天才の死は若き人々に何を考えさせたか?
 芥川龍之介氏の死は、ニュースとしても、評論としても、新聞紙上の重要な記事として取り扱ひつくされました。本誌は、芥川氏の死が、現在、學窓にある純眞なる青少年の魂に何を與へたか?――の問題をこゝに新しく提供する機會に達しました。芥川氏は、東京府立第三中學校を出て、第一高等學校をへて、東京帝国大學文學部を卒業せられた人、本誌は、即ち、かつて芥川氏が學ばれたそれ等の學校に在學しつゝある文藝部の同人から、先輩の死に對するいつはらざる感想を聴取し、これを愛讀者諸姉の前に提出するのであります。純眞なる學生の胸に、この一事件がいかに反映したか?我々は、中學生らしい感想の中に、高等學校の學生らしい感想の中に、又は大學生らしい感想の中に、最も誠実なる彼らの生活の一部を凝視し得ると思ふのであります。
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□崇高なる死 舟橋聖一 東京帝国大學文藝部同人

□果して藝術の破綻か? 依岡勇吉 第一高等學文藝部委員

□先生の長逝を悼む 熊井安之助 東京府立第三中學校雑誌部委員
 これら三編は『芥川龍之介研究資料集成』第四巻所収。

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もうひとりの佐渡女性・田中とみ
2017-09-29 Fri 00:01
田中とみ

1933年(昭和8年)ころ、紀州徳川家南葵文庫主事を務めた文献学者の高木文のところに佐渡出身の政治家山本悌二郎、前田米蔵、山東誠三郎らの紹介状を持って、佐渡の「田中とみ」なる女性が『源氏物語』の写本を売りたいと尋ねてきたという( 高木文「賜架書屋随筆」『書物展望』第5巻第8号(通号第50号)、書物展望社、1935年(昭和10年)8月、p. 126-129)。このことは拙文「佐渡時代の大島本『源氏物語』と桃園文庫」(『光源氏物語傳來史』武蔵野書院、2011年(平成23年)11月、p…142-161)に、金井村貝塚田中家に同居していた「とみ」氏と推定したところ。この田中家は、江戸時代、佐渡に奉行代官として越左してきた相川の田中氏ではなく、千利休四男宗弘一統として、弘治二年(1556)、織田信長、豊臣秀吉の時代、佐渡国仲にやってきた田中氏であるとされる(拙著『光源氏物語傳來史』参照)。

 ところが、最近、もうひとり、貝塚の隣村・新穂村にも、婦人運動家の田中とみ氏(旧新穂村武井、旧姓・田辺、1883-1960)がいたことが判明。夫・亮一(旧新穂村舟下 ?-1937?)は明治大正時代の県会議員。こちらのとみは、昭和初頭、蔵書・田中文庫(全3000冊)を新穂図書館に寄贈したという『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年)。現在も佐渡市立図書館新穂図書室に、芳賀矢一・佐佐木信綱『謡曲大観』(博文館、1914年(大正3年))など、大正時代の刊行物の蔵書が確認される。また、田中文庫に関しては『新穂村史』「資料編」「4、村内の近世及び近代(明治年代)の蔵書調」に、新穂村内の漢籍・和書では田中亮一氏の蔵書が多くを占めることが特記されている。ただし、田中文庫は漢籍が多くを占め、『源氏物語』は見えない。潟上・土屋一丸家蔵書に『源氏無外題』(元和元年)三冊が見えるのみである。

『新穂村史』
 田中とみ 1883-1960、新穂武井生れで舟下田中亮一に14才で嫁したという。資産があり、主人は温良であり、子宝に恵れなかったので婦人会運動に一生を捧げたといってもよいであろう。明治39年婦人会組織の時も同村の後藤キミ、大野河野セツ、長畝佐藤等と共に発起者であり、大正7年(1918)35才で副会長となり、同13年会長、大正15年には佐渡郡婦人団体の副会長に当選、後婦人会の県連合会の役員等を歴任した。そのことよりも「風俗改良」に対する熱意と実行力は大きかった。尤も生活改善節約運動は近世にも盛んであったが、実効は少なく明治-大正と持ちこされていた。田中は大正14年嫁の配り物は全廃と「配り物はやるな、受けとるな」と会員全員に署名捺印させたという。「田中の世話やきばばあ、子供がないから肩が軽い」と一般から悪口を言われたが負けずに運動をつづけた(『新穂村史』(昭和51年刊)。

 こちらの田中とみは、大川周明(1886-1957)日記にも登場。大川は、『大川周明日記明治36年--昭和24年』( 大川周明顕彰会、岩崎学術出版社, 1986年)に、田中亮一子孫の来訪と、とみからの付け届けを記していた。

  昭和18年10月18日 月
二十年以前に知合へる佐渡田中亮一氏の子及び孫来訪。
 昭和18年10月24日 日 
佐渡田中トミ女史より味附わかけ(ママ)罐入恵送。

 ただし、「田中亮一氏の子及び孫」とあるものの、二人に実子はないので、養子が大川周明を尋ねてきたことになる。

 とりわけ、田中亮一家の蔵書の整理時期と、大島本の売却交渉時期が重なることは重要。ただし、田中亮一が新穂村舟下の人で、没年は推定(1937年)とあり、詩文に優れたことが知られるのみで、戦国時代の吉見正頼から昭和佐渡時代までを辿ることは困難。世話好きの田中とみが、佐渡出身の代議士山本悌二郎らの推薦状を携えて、隣村の田中家由来の大島本売却交渉のため、高木文を尋ねた可能性はあるにしても、やはり、大島本の越左に関しては、和歌の家としての貝塚田中家を起点に考えて良いように思われる。
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板倉功氏「『源氏物語』越佐の系譜ー底本『大島本』は『佐渡本』」について
2017-09-28 Thu 09:00
板倉功論文

 佐々木孝浩氏著『日本古典書誌学論』に関する高田信敬氏の書評「国語と国文学」(2017年10月号)は極めて重要な指摘と知見に富む論攷。ただし、大島本の伝来に関して以下のようにある。

  なお伝来に関して(241頁)、佐渡島の所有者が少しわかることを付言する(注9)

(注9) 佐渡島にて修理ヤツ女史(1936年没)より剛安寺に寄贈された経緯がある(「『源氏物語』古典覚え書き」179)

 調べてみると、この情報が平成14年(2002)にもたらされたものであることが判明。この年以後の文献であることが必須条件となると、板倉功著『源氏物語覚書 改訂版』新発田、1、2003年8月、2、2003年10月、2冊のうちの、179頁にこの記述があることになる。これは国立国会図書館、新潟県立図書館、鶴見大学図書館にしか所蔵が確認されないもの。ところが、板倉功氏には、再度、これをまとめた論攷のあることが判明。

 板倉功「『源氏物語』越佐の系譜ー底本『大島本』は『佐渡本』」「郷土新潟」46号、新潟郷土史研究会、2006年3月。

 この号を購入して精読。すると、以上の「新情報」は吉井本郷(旧金井町)剛安寺住職による先代証言のみが論拠であって、高木文に大島本を売りに来た田中とみとの関係、はやく父と兄を喪い、母の手で育てられ、苦学した裁縫教師・修理ヤツ(1853-1936)が、『源氏物語』をどこから、どのように入手したのか、これらは一切不明であり、確定条件は認められない。
 現在、佐渡にある『源氏物語』は二セットで、ひとつは市立図書館蔵の堀家本(佐渡市指定 有形文化財)と、もうひとつは松栄家本。堀家本は所有者・堀治郎氏没後、ただちにゆかりの家から旧金井町に寄贈されており、剛安寺経由の伝来は考えられない。ところが後者の松栄家本(松栄家は回船業、佐渡汽船オーナー。明治初年、鈴木重嶺により佐藤から改姓)は、当主の証言として、先代・松栄俊三(1890ー1984)の入手と本論文にあることから、この本こそが、板倉論文にいう『源氏物語』の可能性が極めて高いように思われる。
 いっぽう、『光源氏物語傳來史』で、大島本所有者と推定した貝塚田中家の来歴は以下の通り。吉見家滅亡のあと、毛利家の所蔵となり、明治半ばに、勝海舟、鈴木重嶺の仲介で佐渡に渡ったと考えるのが卑説。一昨年秋、毛利家研究の広島県立大学の秋山伸隆先生に窺ったところ、江戸時代の毛利家典籍は一切流出した形跡はない旨を御教示頂き、近代に至って大島本の越左を裏付ける証言であるように思われるので付言する。

田中穂積

『佐渡を創った百人』金井町、1987年。出典・佐渡人名録

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