物語学の森 Blog版 池田亀鑑
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このBlogは、私が物語研究の途上で出会った様々な発見や、物語をともに学ぶ人々との出逢いを綴ったものです。ごらんのみなさんにも物語文学の深遠なる森の如き世界の一端をお知りいただければ幸いです。
池田亀鑑記者「天才(芥川龍之介)の死は若き人々に何を考えさせたか?」


「婦人世界」昭和2年9月号、実業之日本社

 実業之日本社社員であった池田亀鑑(1896-1956)は、文壇この年最大の事件・芥川龍之介(1892-1927)の自殺(7月24日)に際して、他誌に先駆けて無署名の特集を組んだ。亀鑑自身も東京高等師範學校時代文藝部であったことも影響してか、原稿を集めやすいと云う計算もあろう、後輩の舟橋聖一(1904-1976)ら文藝部員に原稿を依頼している。なお、舟橋聖一の遺した書簡一千通には池田亀鑑のものも含まれているという。
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○天才の死は若き人々に何を考えさせたか?
 芥川龍之介氏の死は、ニュースとしても、評論としても、新聞紙上の重要な記事として取り扱ひつくされました。本誌は、芥川氏の死が、現在、學窓にある純眞なる青少年の魂に何を與へたか?――の問題をこゝに新しく提供する機會に達しました。芥川氏は、東京府立第三中學校を出て、第一高等學校をへて、東京帝国大學文學部を卒業せられた人、本誌は、即ち、かつて芥川氏が學ばれたそれ等の學校に在學しつゝある文藝部の同人から、先輩の死に對するいつはらざる感想を聴取し、これを愛讀者諸姉の前に提出するのであります。純眞なる學生の胸に、この一事件がいかに反映したか?我々は、中學生らしい感想の中に、高等學校の學生らしい感想の中に、又は大學生らしい感想の中に、最も誠実なる彼らの生活の一部を凝視し得ると思ふのであります。
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□崇高なる死 舟橋聖一 東京帝国大學文藝部同人

□果して藝術の破綻か? 依岡勇吉 第一高等學文藝部委員

□先生の長逝を悼む 熊井安之助 東京府立第三中學校雑誌部委員
 これら三編は『芥川龍之介研究資料集成』第四巻所収。


2017-10-01 Sun 07:41
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もうひとりの佐渡女性・田中とみ
田中とみ

1933年(昭和8年)ころ、紀州徳川家南葵文庫主事を務めた文献学者の高木文のところに佐渡出身の政治家山本悌二郎、前田米蔵、山東誠三郎らの紹介状を持って、佐渡の「田中とみ」なる女性が『源氏物語』の写本を売りたいと尋ねてきたという( 高木文「賜架書屋随筆」『書物展望』第5巻第8号(通号第50号)、書物展望社、1935年(昭和10年)8月、p. 126-129)。このことは拙文「佐渡時代の大島本『源氏物語』と桃園文庫」(『光源氏物語傳來史』武蔵野書院、2011年(平成23年)11月、p…142-161)に、金井村貝塚田中家に同居していた「とみ」氏と推定したところ。この田中家は、江戸時代、佐渡に奉行代官として越左してきた相川の田中氏ではなく、千利休四男宗弘一統として、弘治二年(1556)、織田信長、豊臣秀吉の時代、佐渡国仲にやってきた田中氏であるとされる(拙著『光源氏物語傳來史』参照)。

 ところが、最近、もうひとり、貝塚の隣村・新穂村にも、婦人運動家の田中とみ氏(旧新穂村武井、旧姓・田辺、1883-1960)がいたことが判明。夫・亮一(旧新穂村舟下 ?-1937?)は明治大正時代の県会議員。こちらのとみは、昭和初頭、蔵書・田中文庫(全3000冊)を新穂図書館に寄贈したという『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年)。現在も佐渡市立図書館新穂図書室に、芳賀矢一・佐佐木信綱『謡曲大観』(博文館、1914年(大正3年))など、大正時代の刊行物の蔵書が確認される。また、田中文庫に関しては『新穂村史』「資料編」「4、村内の近世及び近代(明治年代)の蔵書調」に、新穂村内の漢籍・和書では田中亮一氏の蔵書が多くを占めることが特記されている。ただし、田中文庫は漢籍が多くを占め、『源氏物語』は見えない。潟上・土屋一丸家蔵書に『源氏無外題』(元和元年)三冊が見えるのみである。

『新穂村史』
 田中とみ 1883-1960、新穂武井生れで舟下田中亮一に14才で嫁したという。資産があり、主人は温良であり、子宝に恵れなかったので婦人会運動に一生を捧げたといってもよいであろう。明治39年婦人会組織の時も同村の後藤キミ、大野河野セツ、長畝佐藤等と共に発起者であり、大正7年(1918)35才で副会長となり、同13年会長、大正15年には佐渡郡婦人団体の副会長に当選、後婦人会の県連合会の役員等を歴任した。そのことよりも「風俗改良」に対する熱意と実行力は大きかった。尤も生活改善節約運動は近世にも盛んであったが、実効は少なく明治-大正と持ちこされていた。田中は大正14年嫁の配り物は全廃と「配り物はやるな、受けとるな」と会員全員に署名捺印させたという。「田中の世話やきばばあ、子供がないから肩が軽い」と一般から悪口を言われたが負けずに運動をつづけた(『新穂村史』(昭和51年刊)。

 こちらの田中とみは、大川周明(1886-1957)日記にも登場。大川は、『大川周明日記明治36年--昭和24年』( 大川周明顕彰会、岩崎学術出版社, 1986年)に、田中亮一子孫の来訪と、とみからの付け届けを記していた。

  昭和18年10月18日 月
二十年以前に知合へる佐渡田中亮一氏の子及び孫来訪。
 昭和18年10月24日 日 
佐渡田中トミ女史より味附わかけ(ママ)罐入恵送。

 ただし、「田中亮一氏の子及び孫」とあるものの、二人に実子はないので、養子が大川周明を尋ねてきたことになる。

 とりわけ、田中亮一家の蔵書の整理時期と、大島本の売却交渉時期が重なることは重要。ただし、田中亮一が新穂村舟下の人で、没年は推定(1937年)とあり、詩文に優れたことが知られるのみで、戦国時代の吉見正頼から昭和佐渡時代までを辿ることは困難。世話好きの田中とみが、佐渡出身の代議士山本悌二郎らの推薦状を携えて、隣村の田中家由来の大島本売却交渉のため、高木文を尋ねた可能性はあるにしても、やはり、大島本の越左に関しては、和歌の家としての貝塚田中家を起点に考えて良いように思われる。

2017-09-29 Fri 00:01
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板倉功氏「『源氏物語』越佐の系譜ー底本『大島本』は『佐渡本』」について
板倉功論文

 佐々木孝浩氏著『日本古典書誌学論』に関する高田信敬氏の書評「国語と国文学」(2017年10月号)は極めて重要な指摘と知見に富む論攷。ただし、大島本の伝来に関して以下のようにある。

  なお伝来に関して(241頁)、佐渡島の所有者が少しわかることを付言する(注9)

(注9) 佐渡島にて修理ヤツ女史(1936年没)より剛安寺に寄贈された経緯がある(「『源氏物語』古典覚え書き」179)

 調べてみると、この情報が平成14年(2002)にもたらされたものであることが判明。この年以後の文献であることが必須条件となると、板倉功著『源氏物語覚書 改訂版』新発田、1、2003年8月、2、2003年10月、2冊のうちの、179頁にこの記述があることになる。これは国立国会図書館、新潟県立図書館、鶴見大学図書館にしか所蔵が確認されないもの。ところが、板倉功氏には、再度、これをまとめた論攷のあることが判明。

 板倉功「『源氏物語』越佐の系譜ー底本『大島本』は『佐渡本』」「郷土新潟」46号、新潟郷土史研究会、2006年3月。

 この号を購入して精読。すると、以上の「新情報」は吉井本郷(旧金井町)剛安寺住職による先代証言のみが論拠であって、高木文に大島本を売りに来た田中とみとの関係、はやく父と兄を喪い、母の手で育てられ、苦学した裁縫教師・修理ヤツ(1853-1936)が、『源氏物語』をどこから、どのように入手したのか、これらは一切不明であり、確定条件は認められない。
 現在、佐渡にある『源氏物語』は二セットで、ひとつは市立図書館蔵の堀家本(佐渡市指定 有形文化財)と、もうひとつは松栄家本。堀家本は所有者・堀治郎氏没後、ただちにゆかりの家から旧金井町に寄贈されており、剛安寺経由の伝来は考えられない。ところが後者の松栄家本(松栄家は回船業、佐渡汽船オーナー。明治初年、鈴木重嶺により佐藤から改姓)は、当主の証言として、先代・松栄俊三(1890ー1984)の入手と本論文にあることから、この本こそが、板倉論文にいう『源氏物語』の可能性が極めて高いように思われる。
 いっぽう、『光源氏物語傳來史』で、大島本所有者と推定した貝塚田中家の来歴は以下の通り。吉見家滅亡のあと、毛利家の所蔵となり、明治半ばに、勝海舟、鈴木重嶺の仲介で佐渡に渡ったと考えるのが卑説。一昨年秋、毛利家研究の広島県立大学の秋山伸隆先生に窺ったところ、江戸時代の毛利家典籍は一切流出した形跡はない旨を御教示頂き、近代に至って大島本の越左を裏付ける証言であるように思われるので付言する。

田中穂積

『佐渡を創った百人』金井町、1987年。出典・佐渡人名録


2017-09-28 Thu 09:00
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『婦人世界』昭和2年10月號「談話くらぶ」
婦人世界・読者欄
談話くらぶ

まあ、先生「香炉の夢」はどうしたのでせうか。四度までもお待ちしたのにやつぱりない。……いつぞや北大路先生は御病気と伺ひましたが、その後如何でせうか。私は高原で名高い所なんです。避暑地にはふさはしい所ですからどうぞ北大路先生に御出遊下さるやう申し上げて下さいませ。(甲斐山地 高藤生)

「香炉の夢」は八月號にも出てないのね。私はがつかりしてしまつたわ 小菊ちやんは今頃どうしてゐる事でせうね。最後に「花は咲けり」の美鈴ちやんの幸福を祈ります。
(福岡にて 順子)

先日記した北大路春房『香炉の夢』についての読者の声。病気を理由に「休載」し、そのまま中絶に至る経緯が読者に伝わっていないことが判ります。すでにこの年、池田亀鑑は東大副手、芳賀矢一記念会の『源氏物語』注釈書集成、くわえて実業之日本社社員でもあったため、首が回らなくなった方便だったのでしょうか。

2017-09-24 Sun 06:05
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北大路春房『香炉の夢』
  「香炉の夢」(北大路春房・婦人世界一月―昭和二年五月)、「乱刃の巷」(青山桜洲・日本少年、一月一十二月)、「栄光の騎手」(村岡筑水・前述)、「炎の渦巻」(青山桜洲・少女の友、一月一―十二月)、「青い小蛇の死」.(闇野冥火・少女の友一月―十二月)の五大長篇をはじめ、「前世紀の怪魔境」(関野冥火・日本少年・四月―七月)の中篇、それに読切りの短篇を若干、五つのペンネームをフルに動員して、千手観音もどきの大活躍である。
 「香炉の夢」はこの作者のものとしてはわりあいとリアリスチックな大作で、掲載誌も婦人世界であったためか、念入りに書いていたという。(皓氏談)時代は江戸、舞台は肥後八代在。この八代在に舞台をえらんだのは、房子夫人の郷里に近いからであると思われ、附近の自然描写など夫人の入智慧を借用したかと考えられる。そこにみゆき・小菊という姉妹が、従兄清之助といっしょに暮らしている。姉妹は肥後藩士の遺子で、姉のみゆきは勝気で才気があり、妹の小菊は内気でやさしい性格であった。従兄清之助は不具の身で彫刻にうち込み、彼のノミ一本で三人の生計を立てている。彼の父は数年前敵討のために旅出して帰らず、彼は美しい許婚者みゆきとの将来に、わずかな希望を託している。ところが、みゆきは他に恋人ができて駈落する。妹の小菊は小四郎という美男の小姓と恋仲であったが、みゆきの失踪を知った従兄清之助は、一夜狂乱のあまりに小菊を犯す。一方、小四郎は主家の未亡人や小間使に挑まれるが、それらを振り切って小菊といっしょに逃げようとする。しかし小菊は身の汚れを恥じて泣く泣く拒絶、小四郎は怒って出奔する。さきに恋人と駈落したみゆきは放浪の果て、疲れ切って阿蘇山麓へ流れ来る。そこへ偶然、清之助と小菊も移住、清之助はみゆきの幻影をモデルに観世音菩薩の像を刻む。又、彼の父も敵探しの旅を終えて巡礼の少女とともに来り、主要人物すべてか阿蘇へ集まって物語の再展開が期待されるところで、作者病気のため中絶しているのだ。これまでのところでは年来の恋が成就したカップルは一組もなく、みなすれ違いに人生のあらぬ街道を心ならずも歩いている。みゆきの邪恋というわずかなつまずきが発端となって、善良な男女の人生をかくも狂わすものだというのが一篇のテーマとみられる。清之助の性格描写は幸田露伴を想わせるものがあって、とくに精彩をはなち、女性の描写も少女小説の単純から一歩ぬけ出して複雑化されている。この作者も女を知ったという感が深い。なおこの小説には、小菊を描くのに源氏の夕顔を引用したり(第一回)、平家物語の想夫恋をひき合いに出したり(第三回)、清之助の芸術家気質に「天才」という語を何べんも使用したりしているのは、後年の池田博士の面目をしめして興味深い。掲載当時は大変な評判で、ほかの作者の写真はときどき雑誌に載せられるのに、北大路春房先生の写真はどうして一回も載せないのかと、抗議を申し込んだ読者もあったくらいである。(長野嘗一「小説家・池田亀鑑」二、「學苑」昭和女子大学光葉会、1958年6月)

 なお、「香炉の夢」はことわりなく中絶となったため、10月号の読者欄に二通「この4ヶ月待っている」「北大路先生は病気やならん」旨の苦情が寄せられている。
 


2017-09-20 Wed 00:10
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