物語学の森 Blog版 徒然草
物語学の森 Blog版
このBlogは、私が物語研究の途上で出会った様々な発見や、物語をともに学ぶ人々との出逢いを綴ったものです。ごらんのみなさんにも物語文学の深遠なる森の如き世界の一端をお知りいただければ幸いです。
「相夫恋」と『徒然草』覚書

 想夫恋といふ楽は、女、男を恋ふる故の名にはあらず、本は相府蓮、文字の通へるなり。晋の王倹、大臣として、家に蓮を植ゑて愛せし時の楽なり。これより、大臣を蓮府といふ。
 廻忽も廻鶻なり。廻鶻国とて、夷のこはき国あり。その夷、漢に伏して後に、来りて、己れが国の楽を奏せしなり。『徒然草』214段


 謡曲「小督」でもよく知られる話柄ですが、藤原仲国が高倉天皇の命令で嵯峨野に隠れた小督を探しているところに、 微かに琴の音が聞こえてくる。これが「想夫恋」。兼好は『 平家物語』の中でもとりわけ著名な場面を意識して異説を唱えたとされていて、兼好の学殖が遺憾なく発揮されたくだりではあります。ただし、楽曲の享受史としては記憶に留めたいところながら、物語史的には、恋愛の曲として我が国では受容されていたものとすべきでしょう。
 いっぽう、『枕草子』注釈書では、『徒然草』から「相府蓮」とする新潮古典集成があるので注意を要します。

 峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覚束なくは思へども、駒を早めて行く程に、片折戸したる内に、 琴をぞ弾きすまされたる。控えてこれを聞きければ、少しも紛うべうもなく、小督殿の爪音なり。楽は何ぞと聞きければ、夫を想うて恋ふと読む、<想夫恋>という楽なりけり。 『平家物語』巻六

 くわえて、「相夫恋」は『源氏物語』にも四箇所登場しており、やはり「夫を恋い慕う」ことがモチーフ。とりわけ、「横笛」巻は、この曲が重要な意味を持ち、小督説話の通低音になっていると言えるでしょう。

大島本『常夏』
① 「いで、弾きたまへ。才は人になむ恥ぢぬ。「想夫恋」ばかりこそ、心のうちに思ひて、紛らはす人もありけめ、おもなくて、かれこれに合はせつるなむよき」

大島本『横笛』
② 月さし出でて曇りなき空に、羽うち交はす雁がねも、列を離れぬ、うらやましく聞きたまふらむかし。風肌寒く、ものあはれなるに誘はれて、箏の琴をいとほのかに掻き鳴らしたまへるも、奥深き声なるに、いとど心とまり果てて、なかなかに思ほゆれば、琵琶を取り寄せて、いとなつかしき音に、「想夫恋」を弾きたまふ。
 
③ 対へ渡りたまひぬれば、のどやかに御物語など聞こえておはするほどに、日暮れかかりぬ。昨夜、かの一条の宮に参うでたりしに、おはせしありさまなど聞こえ出でたまへるを、ほほ笑みて聞きおはす。あはれなる昔のこと、かかりたる節々は、あへしらひなどしたまふに、
 「かの想夫恋の心ばへは、げに、いにしへの例にも引き出でつべかりけるをりながら、女は、なほ、人の心移るばかりのゆゑよしをも、おぼろけにては漏らすまじうこそありけれと、思ひ知らるることどもこそ多かれ。

④ 「何の乱れかはべらむ。なほ、常ならぬ世のあはれをかけそめはべりにしあたりに、心短くはべらむこそ、なかなか世の常の嫌疑あり顔にはべらめとてこそ。
 想夫恋は、心とさし過ぎてこと出でたまはむや、憎きことにはべらまし、もののついでにほのかなりしは、をりからのよしづきて、をかしうなむはべりし。

三巻本『枕草子』206段(角川文庫)

弾くものは琵琶。調べは風香調。黄鐘調。蘇合の急。鶯の囀りといふ調べ。
筝の琴、いとめでたし。調べは想夫恋。 -集成203段「相府蓮」


 源氏物語音楽用語事典
 池田芙蓉の初期短編「嵯峨の月」も小督説話を小説化したもの


                
2016-02-24 Wed 08:22
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『徒然草』のから学問の源泉を学ぶ

「呼子鳥は春のものなり」とばかり言ひて、如何なる鳥ともさだかに記せる物なし。或真言書の中に、呼子鳥鳴く時、招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺なり。『万葉集』の長歌に、「霞立つ、長き春日の」など続けたり。鵺鳥も喚子鳥のことざまに通いて聞ゆ。 『徒然草』210段

 呼子鳥は『古今伝授』のいわゆる「三木三鳥」のひとつに数えられ、兼好の時代、不明とされていたもの。これに「三草」を加えて以下の通り。
 三木
御賀玉木(をがたまのき)、河菜草(かはなくさ)、蓍に削り花(めどにけづりばな)
 三鳥
百千鳥(ももちどり)、稲負鳥(いなおほせどり)、呼子鳥(よぶこどり)
 三草
川菜草(かはなぐさ)、呉の母(くれのおも)、蓍に削り花(めどにけづりばな)

 蓍に削り花(めどにけづりばな)がかぶり都合八つとなります。「呼子鳥」に関しては二条為世の秘伝が執筆の遠因であろうことが角川文庫新版「補注」に記されてあります。為世と言えば、230段には実際に登場。歌道の師匠のエピソードが書き込まれています。

五条内裏には、妖物ありけり。藤大納言殿(為世)語られ侍りしは、殿上人ども、黒戸にて碁を打ちけるに、御簾を掲げて見るものあり。「誰そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗きたるを、「あれ狐よ」とどよまれて、惑ひ逃げにけり。未練の狐、化け損じけるにこそ。

 秘伝と言えば、「揚名の介」のことも書き込まれていました。
 揚名介に限らず、揚名目といふものあり。『政事要略』にあり。198段

 新版の「補注」は極めて明解に「秘伝」の解釈史を説明してあって有り難いのだけれども一箇所『源氏物語』の所在巻を「空蝉」巻とあるのは「夕顔」巻の誤り。池田亀鑑に拠れば、兼好は当時の青表紙本を見ている由。いずれにせよ、秘伝に通じていた兼好の学問の全体像を把握する必要があることは痛感しています。

2016-01-28 Thu 05:54
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小説家・池田亀鑑の活動時期は昭和8年までか。

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(2014/01)
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 小説家・池田亀鑑の活動時期については、

 長野嘗一「小説家・池田亀鑑(その一、二、三)」『学苑』昭和女子大学光葉会、218.219.221号、1958年5月、1958年6月、1958年8月の(三) に小説リストがあります。これによると、デビュー作は、唯一・池田亀鑑名で著した作品でした。

大正8年(1919)「美しく悲しい安養尼のお話」「少女の友」8月、9月

 また長野氏作成リストの最後の作品は、青山桜州名義の
昭和6年(1931)「炎の白萩城」「日本少年」1月~12月
ということになっています。

 ところが、「「日本少年」不完全リスト」によれば、以下の三つのペンネームが確認されます。このうち、長野リストで補えるところもあるものの、さらに「日本少年」では筆を継いでいたことが知られます。昭和8年ともなると『校異源氏物語』は大島本が手許に置かれつつも、河内本による校本が作成されていた時期と言うことになります。先の長野論文によれば、リスト化は、池田家蔵書が3/2、他に岩下小葉家蔵書、実業之日本社藏本で確認したようですから、生前周囲にも活動を語りたがらなかった作家本人の没後となれば漏れは仕方がありません。
 なお、時間を見つけてコツコツ収集したいと思います。

 ●青山桜州「首のない若君」(昭和7年9月号~?) ※昭和8年11月号まで連載確認
 ●池田芙蓉「燃ゆる落日」(昭和7年1月号~?) 
また、後掲の村岡名の著作はリスト落ちしていました。
 ●村岡筑水「アフリカ密林の奥地人猿と人類との凄じい(原文ママ)戦ひ」(昭和5年11月号)」

以下、「不完全リスト」から池田亀鑑関係を抜粋し、■で長野リストのデータを補足しました。
 ●青山桜洲
・「髑髏島(どくろとう)」(昭和5年6月号?~12月号?)※昭和5年10月号から連載確認 ■長野リストで推測は正鵠と判明。
・「炎の白萩城」(昭和6年1月号~?) ※昭和7年1月号以前に終了 ■完結は「6年12月号」と長野リストで判明。
・「首のない若君」(昭和7年9月号~?) ※昭和8年11月号まで連載確認。)■長野リストになし。

●池田芙蓉
・「馬賊の唄」(?~?)※昭和5年10月号から6年6月まで連載確認 ■長野リストで前篇は大正14年11月~12月、15年1月(単行本化)。後篇は4年2月~12月号、5年1月~12月号と判明(単行本未刊)。
・「燃ゆる落日」(昭和7年1月号~?)■長野リストになし。

●村岡筑水
・「アフリカ密林の奥地人猿と人類との凄じい(原文ママ)戦ひ」(昭和5年11月号)■長野リストになし。 

2015-04-25 Sat 08:31
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池田芙蓉『諸国物語 笄の渡(こうがいのわたし)』
 大正10年(1921)、26歳の池田亀鑑は、小説を書き始めて三年目。池田芙蓉として「少女の友」(実業之日本社)に「諸国物語」を八回にわたって連載しました。10月号では「笄の渡(こうがいのわたし)」を書いています。この物語は、信州坂城町にある「葛尾城(かつらおじょう)」にまつわる伝説を書き下ろしたもので、戦国武将・村上義清の側室「於フ子」が、武田晴信(信玄)軍との交戦による落城に際して、危険を顧みず千曲川を渡してくれた船頭に、御礼の「笄」を送ったことから、「笄の渡」と呼ばれるようになったと言う話。

 時間を見つけて、城跡に立つ満泉寺を尋ねてみたいものです。
 ◎坂城町満泉寺(村上氏居館跡)紹介記事 
 ◎葛尾城と村上義清



2015-03-02 Mon 07:14
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宗尊親王と『徒然草』
 その昔、検定教科書『古典講読 枕草子・徒然草・評論』を作った関係もあって、月一回、『徒然草』を読んでいます。昨年、作者の伝記がほとんど書き換えられたこともあって、予習も前提から見直しながら。

 宗尊親王の文事は、蹴鞠の飛鳥井家とも深く関わっており、源氏学においても書くことの出来ない人物。これを通史的に勉強する必要性を痛感しました。


 鎌倉中書王にて御鞠ありけるに、雨降りて後、未だ庭の乾かざりければ、いかがせんと沙汰ありけるに、佐々木隠岐入道、鋸の屑を車に積みて、多く奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土の煩ひなかりけり。「取り留めけん用意、有り難し」と、人感じ合へりけり。 この事を或者の語り出でたりしに、吉田中納言の、「乾き砂子の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、恥かしかりき。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく、異様の事なり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子を設くるは、故実なりとぞ。(第177段)
2015-01-28 Wed 07:31
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