物語学の森 Blog版
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私的上臈女房としての《紫式部》
2019-01-17 Thu 06:12
 ある学協会機関誌の書評に、紫式部と藤原香子は別人であるとの指摘があることを知り、さっそく精読。その核心部分は以下の通り。

『紫式部日記』には繰り返し「うへ人」(内裏女房)についてはよく知らない、と記している。紫式部自身は内裏女房でも中宮兼任の内裏女房でもない。彰子に仕える中宮三役の内侍は「宮の内侍」と呼称されており(定員一名だからこそ、この呼称で他の女房と区別できる)、掌侍藤原香子と紫式部は全くの別人なのである(39頁)。

 その根拠となる「繰り返し「うへ人」(内裏女房)についてはよく知らない、と記している」とある「うへ人」は以下の二例。しかも、内裏女房のことを「よく知らない」とあるのは一例のみで、「繰り返し」というのはいささか勇み足の説述ということになる。

寛弘五年(1008)  九月十六日夜、若い女房たちの舟遊び
北の陣に車あまたありといふは、上人(うへひと)どもなりけり。藤三位をはじめにて、侍従の命婦、藤少将の命婦、馬の命婦、左近の命婦、筑前の命婦、少輔の命婦、近江の命婦などぞ聞こえはべりし。詳しく見知らぬ人びとなれば、ひがごともはべらむかし。  

寛弘五年(1010) 正月十五日 敦良親王御五十日の祝い
 あからさまにまかでて、二の宮の御五十日は正月十五日、その暁に参るに、小少将の君、明け果ててはしたなくなりにたるに参りたまへり。例の同じ所にゐたり。二人の局を一つに合はせて、かたみに里なるほども住む。ひとたびに参りては、几帳ばかりを隔てにてあり。殿ぞ笑はせたまふ。
 「かたみに知らぬ人も語らはば。」
など聞きにくく、されど誰れもさるうとうとしきことなければ、心やすくてなむ。
 日たけて参う上る。かの君は、桜の織物の袿、赤色の唐衣、例の摺裳着たまへり。紅梅に萌黄、柳の唐衣、裳の摺目など今めかしければ、とりもかへつべくぞ、若やかなる。上人ども十七人ぞ、宮の御方に参りたる。いと宮の御まかなひは橘三位。取り次ぐ人、端には小大輔、源式部、内には小少将。
 中務の乳母、宮抱きたてまつりて、御帳のはざまより南ざまに率てたてまつる。こまかにそびそびしくなどもあらぬかたちの、ただゆるるかに、ものものしきさまうちして、さるかたに人教へつべく、かどかどしきけはひぞしたる。葡萄染めの織物の袿、無紋の青色に、桜の唐衣着たり。
 餅まゐらせたまふことども果てて、御台などまかでて、廂の御簾上ぐるきはに、上の女房は御帳の西面の昼の御座に、おし重ねたるやうにて並みゐたり。三位をはじめて典侍たちもあまた参れり。
 宮の人びとは、若人は長押の下、東の廂の南の障子放ちて、御簾かけたるに、上臈はゐたり。御帳の東のはざま、ただすこしあるに、大納言の君、小少将の君ゐたまへる所に、たづねゆきて見る。
 
 この一節から、彰子中宮の女房の上臈と下位のものたちとがあり、紫式部は、下位の女房達のいる「御帳の東のはざま、ただすこしある」ところに、「大納言の君、小少将の君」を尋ねているのだから、下位の女房ではない。したがって、私的上臈女房と考えてよいように思われる。このあたりの人物配置図は、著者は参照していないようであるが、萩谷朴『紫式部日記全注釈』下巻、角川書店、1974年448頁で明示されている。

寛弘五年(1008)  十月十六日 土御門殿邸行幸の日
かねてより、主上(うへ)の女房、宮にかけてさぶらふ五人は、参り集ひてさぶらふ。内侍二人、命婦二人、御まかなひの人一人。御膳まゐるとて、筑前、左京、一もとの髪上げて、内侍の出で入る隅の柱もとより出づ。これはよろしき天女なり。左京は青色に柳の無紋の唐衣、筑前は菊の五重の唐衣、裳は例の摺裳なり。御まかなひ橘三位。青色の唐衣、唐綾の黄なる菊の袿ぞ、上着なむめる。一もと上げたり。柱隠れにて、まほにも見えず。
 
  くわえて、「彰子に仕える中宮三役の内侍は「宮の内侍」と呼称されており(定員一名だからこそ、この呼称で他の女房と区別できる)」とあるのも、内裏(帝)と中宮兼任の女房の内侍が「二人」とあり、差別化が難しく、断言は出来ない。また、以下のように、彰子出産の折の紫式部達の人物配置においても、中宮女房の紫式部は「いま一間(北庇東三の間)」にいたとされるが、ここには、同僚の内侍と呼ばれる女房だけで「宮の内侍、弁の内侍」の二人いる。つまり、内侍を定員一名と断言することそのものが危険で、「内侍」「二名」とあるのは、職掌と呼称が混在しているのか、定員外にいたのかも不明であり、紫式部が内侍でなかったとはやはり断言できない。したがって、このあたりのことはまだまだ未解明ということになろう。

寛弘五年 九月十一日の暁、加持祈祷の様子

 人げ多く混みては、いとど御心地も苦しうおはしますらむとて、南、東面に出ださせたまうて、さるべきかぎり、この二間のもとにはさぶらふ。殿の上、讃岐の宰相の君、内蔵の命婦、御几帳の内に、仁和寺の僧都の君、三井寺の内供の君も召し入れたり。殿のよろづにののしらせたまふ御声に、僧も消たれて音せぬやうなり。
 いま一間にゐたる人びと、大納言の君、小少将の君、宮の内侍、弁の内侍、中務の君、大輔の命婦、大式部のおもと、殿の宣旨よ。いと年経たる人びとのかぎりにて、心を惑はしたるけしきどもの、いとことわりなるに、まだ見たてまつりなるるほどなけれど、類なくいみじと、心一つにおぼゆ。

 つまりは、先の説述のみでは、「紫式部と藤原香子は別人」とは確言できないということになる。
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二本目に取りかかる
2019-01-15 Tue 07:03
 一本目は微調整して脱稿。今月二本目に取りかかる。念のため、google booksでキーワードをリサーチすると、見落としていた文献を発見。内容もある程度読める有り難いツール。有効活用されたし。

 この間、頂いた原稿には朱を加え、コメント欄に要望を書き込んで編集部に託す。この春は、注釈と編集作業。これが終わったら書き下ろしに挑戦予定。大人の事情で遅れている亀鑑小説もまとめたい。
 
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猫のゐる暮らしの話
2019-01-12 Sat 06:32
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 我が家の周辺にお住まいの女性はみなさん猫好き。軒先には猫用の餌や水が用意されている。私はどちらかというと動物は苦手であった。
 ところが、一昨年の春先、突如見かけぬ子猫が出現(写真1枚目左)。右の年寄り猫は親だと思っていたが、後に彼氏だったと判明する。しかも、この子猫は、二度に渡って私の家のポストの前に、臭いモノを残した。二度とも怒りながら始末する私を、この子猫は、ややおびえながらじっと観察していた。これがこの子猫のデビュー当時の出来事である。
 もともと我が家の周辺には、茶色のおっさん猫(13歳)が君臨していた。私は勝手に「にゃん太郎」と命名。ご近所さんはそれぞれ別の名前をつけて呼んでいた。そもそもこの猫は通りの西端に住んでいた、いささか素行不良の親子が飼っていた猫であったと言うことだ。再婚相手の母子が去り、飲んだくれでまったく働かなかった大工でもと警察官の父親が突然死した後、息子も夜逃げ同然で転居してこの猫・にゃん太郎が残されたのである。この二匹は兄妹のように、いつも一緒に行動するようになった(写真2枚目)。ところが、秋のある日、私の駐車場に猫の吐血を見つけた。茶色の猫・にゃん太郎のもので、それ以来、元気付けに少しばかりの餌を与えるようになる。調べてみると、高齢の猫の多くは腎孟炎を煩っていると判明。誰かが医者に連れてゆけばよいが、と思っていたまま越年。昨年の正月明け、いよいよ体調不良で震えていたので近所の獣医さんに見せたところ、脱水症状と腎孟炎、しかも深刻な歯槽膿漏による吐血と判明。「冬は越せないんじゃないですか」との診断。薬用の餌と、ポカリスエツトを与えた。あいにくこの直後に大雪。それを境に、この猫は姿を消した。近所にある妙音澤公園の広大な森林のどこかで亡くなったのではないか、とは永年餌やりをしていたご主人の話。
 その雪がようやく消えた頃、妹猫が駆け寄ってきて、茶色のおっさん兄猫・にゃん太郎に遠慮して決して食べなかった餌を食べるようになる。4月、書庫の移動で大量の書籍を移動させていたところ、この猫はその様子を一日中眺めていた。この妹猫を「にゃん」と命名。この猫は、居着いた直後に、ご近所の奥さんが不妊手術をしたそうで、左の耳にその印がつけられたのは写真2枚目。その際、この子猫は妊娠しており、1枚目のおっさん猫の子を宿していたらしい。後に、この二匹は険悪となったようで、特に耳を怪我したおっさん猫のことを、私はひそかに「芳一」と呼んでいる。

 臆病者の雌猫であるから、蛇を見つけても眺めているだけで襲うわけではなく、結局逃げられていた(写真3枚目)。そのうち、書斎にもあがってくるようになり、早暁にデスクワークを始めると、最初は、ソファから私の背中を眺めているが、結局寝てしまい、目覚めて明かりのまぶしさに目を覆うお茶目さである(写真4枚目)。

 こんなこともあった。出張でやってきた弟が見つけた近所の飲み屋に出掛けたところ、この子猫が追っかけてきて、ところどころで何度もひっくり返り、お腹を見せるセクシーポーズを繰り返した。甘えん坊猫である。
 昨年の夏休み、長期間家を空けたところ、書斎の前に、また臭いモノが落ちていた。某さんのリサーチによると、猫は構ってくれないと、あえてそう言ういたずらをして、自らの存在をアピールするらしい。人間の赤ん坊と一緒である。

 また夏のある時、近所の野球少年が自転車でやってきて、「この猫かわいい」と、我が家の周辺を二周して行った。我が家の南側は市立保育園の跡地が売却されて新興住宅地となり、40代前後の世帯が一挙に増えたが、この猫は、小さな藤棚のある公園でひなたぼっこしていることがあり、その南にお住まいのお若い奥様からも、餌を貰っては撫で撫でしてもらっているところを目撃して吃驚。なかなか社交的な猫である。この社交性は見習いたい。


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大島本『奥入』に引用された目連救母説話
2019-01-07 Mon 06:33
 『源氏物語』「鈴虫」巻で、秋好中宮が、物の気となった母六条御息所の罪障から出家しようとした時、源氏は以下のように述べて、これを制していた。

 その炎なむ、誰も逃るまじきことと知りながら、朝の露のかかれるほどは、思ひ捨てはべらぬになむ。目連が仏に近き聖の身にて、たちまちに救ひけむ例にも、え継がせたまはざらむものから、玉の簪捨てさせたまはむも、この世には恨み残るやうなるわざなり。    (大島本「鈴虫」巻)

  引用された目連救母説話は、藤原定家が自筆本『奥入』に以下の典拠を示している(『源氏釈』も同内容)。ただし、転写の際の異同も激しいので、諸本を校合してわたくしに訓釈した。

目連((×蓮))初メテ道眼ヲ得テ母ノ生ルル所ヲ見ル。而ルニ地獄ニ堕イリ、骨ヲ砕(くだ)キ膚(はだえ)ヲ焼(や)ク。仍テ神通ニ乗り、自ラ地獄ニ行ク。獄卒ニ逢ヒテ相代(あいかわら)ムと母ヲ乞(こ)ヒ請(う)ク。獄卒答ヘテ云ハク「善悪ノ業ノ造ル者自ラ其ノ果ヲ受ク。大小利ノ法也。更ニ免(ゆる)スベカラズ。則チ鉄(てつじよう)城之戸(と)ヲ閇ヂヌ。見エズ成ヌ。目蓮悲シミテ空シク帰ル。但シ、経文ノ如キ者ハ餓鬼中ニ堕ツ。仍テ七月十五日盂蘭盆(うらぼん)ヲ設ケ之ヲ救フニ明ラカナル事也

 完全原稿は目下編集中の本に掲載予定。
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唐代偽経と『源氏物語』
2019-01-06 Sun 16:10
 編者代表にして、10日締め切りの唐代偽経と『源氏物語』に関する原稿を鋭意執筆中。編者が遅れては督促も叶わぬ。ほぼまとまったところ。
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