物語学の森 Blog版
北一輝・北昤吉・山本悌二郎、そして大川周明
2017-10-19 Thu 07:40


 山本悌二郎(1870-1937)、北一輝(1883-1937)・北昤吉(1885-1861)、そして大川周明(1886-1957)と本を揃えて勉強(ラベルのない本は架蔵)。大東文化協会発足時( 1924年)、山本は会計部、昤吉は比較文化部に名前が見える。大川は在籍の記録は見つからぬものの、『亜細亜、欧羅巴、日本』(大東文化協会、1925年)を出版。

 のちに、蜜月だった北一輝と大川の関係は、1926年(大正15年)安田共済生命事件で、関係が悪化したとされる。ただし、このことは、『北一輝と佐渡』に簡単に触れられるのみ。『一輝と昤吉』は、昤吉が国会議員時代の秘書だった稲邊小二郎氏の評伝。
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漱石の蔵書
2017-10-17 Tue 07:31


 雨の漱石山房記念館。写真にもとづき精巧に復原された書斎。重ねられた本も厚さを推定して作ったとのこと。やはり、東北大学所蔵の漱石の蔵書が気になるところ。充実した検索機能で和書『源氏物語 附 引歌並爪引』29冊もヒット。よく整備された記念館。ぜひ足をお運び下さい。
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『大川周明日記』と川島芳子
2017-10-14 Sat 08:11
 『大川周明日記』を少しずつ読み進める。昭和初期のテロルの時代の日記は欠けているものの、大正11年(1922)は『満州旅行』。その7月31日には、川島浪速と16歳の川島芳子(1907-1948)が登場。
 
  川島浪速氏は、二十五日に歸京したとのこと。肅王家の財政始末が思ふやうに行かず、東京で山本條太郎氏に相談に行ったとのこと。芳子さんも一緒に日本に行かれたそうだが、もう十六になったとのこと。お転婆で、それに悪賢くなって手に終えぬと小平氏がこぼして居た。118 ページ

 巻末人物注記 7月31日 川島浪速。国家主義者。満州国独立運動を推進。川島芳子粛親王第一四王女。のちに「東洋のマタハリ」の異名をとる。昭和二十三年中国において反逆罪で処刑。535 ページ 
 
 もちろん、北一輝、北昤吉も登場。東京裁判中に精神鑑定を受ける旨の記述もあり、以前、大川の「演技」説も読んだこともあり、この日記を読めば、この説もあながち侮れないかも知れないと思いつつ、さらに頁を繰る。

 締め切りをいくつも抱え、更新滞ります。
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大島本『源氏物語』と佐渡・紀州人脈
2017-10-09 Mon 08:27
 昭和8年頃、傳飛鳥井雅康筆本『源氏物語』(大島本)数冊を携えて、南葵文庫主事の高木文のもとにやってきた「田中とみ」に紹介状を書いたのは、以下の三名。

○山本悌二郎(1870-1937、佐渡相川出身、元農林大臣、新潟一区選出衆議院議員(立憲政友会)、三島由紀夫『宴のあと』のモデルで元外務大臣・有田八郎の実兄。昭和11年2月の衆議院選挙で11選ののち、議員辞職。この間、昭和10年には美濃部達吉の天皇機関説を批判し、国体明徴運動を主導、大東文化学院副会頭、第五代会頭。昭和12年12月、大東文化学院玄関で脳溢血に倒れる)
○前田米蔵(1882-1952、和歌山県出身、旧東京府6区選出衆議院議員(立憲政友会))、
○山東誠三郎(1888-?、和歌山県御坊市出身、慶應義塾大学理財科卒業、紀州家理事、第一回参議院議員選挙(1947)和歌山選挙区から出馬するも落選、当選は紀州家当主徳川頼貞)の紹介状を持参していたという(『書物展望』昭和10年8月)。

 「紹介状」は佐渡出身の山本悌二郎が主導し、高木文を買い主候補と定め、高木文が主事を務めた南葵文庫の繋がりから、和歌山県出身で、立憲政友会の同僚代議士・前田米蔵、さらに紀州家理事の山東誠三郎の「紹介状」を揃えたものと思われる。
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北昤吉と佐渡人脈
2017-10-09 Mon 08:26
北玲吉1921ドイツハイデルブルグ左・大正末年頃の名刺・右・ドイツハイデルベルグ留学中(1921)の写真

 先日紹介した、もうひとりの佐渡の女性「田中とみ」。昭和18年の『大川周明日記』にも登場する行動する女性。大川日記によると、田中とは二十年来の知己と記しているので、大正末年には面識を得ていたものと推察される。この大川と田中とみを結びつけるのは、やはり佐渡両津夷出身の北一輝(1883-1837)、そして弟の北昤吉(1885-1861)。226事件で刑死した北一輝について、大川は以下のように回想している(北一輝君を憶ふ)。

北君は私にも二つの形見の品を遺してくれた。その一つは白の詰襟の夏服で、上海で私との初対面の思ひ出をこめた贈物である。大正八年の夏のこと、吾灯は満川亀太郎君の首唱によりて猶存社を組織し、平賀磯次郎、山田丑太郎何盛三の諸君を熱心な同志とし、牛込南町に本部を構へて維新運動に心を砕いていた。そして満川君の発議により、当時上海に居た北君を東京に迎へて猶存社の同人にしたいと言ふことになり、然らば誰れが上海に往くかという段になって、私が其選に当つた。この事が決つたのは大正八年八月八日であつた。八の字が三つ重なるとは甚だ縁起が良いと、満川君は大いに欣び、この芽出度い日付で私を文学士大川周明兄として北君に紹介する一書を認めた。そして何盛三君が愛蔵の書籍を売つて、私の旅費として金百円を調達してくれた。かやうにして事が決つたのは八日であつたが、事を極めて秘密に附する必要があり、その上旅費も貧弱であつたので適当な便船を探すのに骨が折れ、愈π肥前唐津で乗船することになつたのは八月十六日であつた。(略)処刑直前に北君が私に遺した形見の第二の品は、実に巻紙に大書した『大魔王観音』の五字である。北君がこれを書く時、その中に千情万緒が往来したことであろう。ひとつ大川にからかつてやれと言ふ気持もあつたらう。また私が魔王々々と呼んで北君と水魚のやうに濃かに交って居た頃のことを思ひめぐらしたことであらう。また今の大川には大魔王観音の意味が本当に判る筈だと微笑したことでもあらう。いずれにせよ死刑を明日に控えてのかのやうな遊戯三昧は、驚き入つた心境と言はねばならぬ。

実弟の北昤吉は、兄と同じく早稲田大学に学び、自らは高等教育の基盤整備に心血を注ぎ、草創期の大東文化学院教授のかたわら、帝国美術学校(武蔵野美術大学)、多摩美術学校(多摩美術大学)という、美大の双璧の設立に関与している。のちに政治家に転身、兄が刑死する発端となる226事件の一年前の1936年第19回衆議院議員総選挙で新潟1区から無所属で当選し、政治家へと転身した(同じ一区に最晩年の山本悌二郎も立憲政友会から出馬して当選)。当選後立憲民政党に入党、公職追放の後、自由民主党鳩山派所属議員。若き日の兄とは疎遠であったが、戦後に兄の「国体論」を出版するなど、その思想を肯定的に評価している。

 婦人運動家「田中とみ」は、夫亮一が新潟県議会議員だったこともあり、佐渡相川出身の代議士・山本悌二郎とも知遇を得ている。北兄弟の母が新穂村出身の本間リクであったことから、同村出身の誼、くわえて兄・一輝は眼病長期治療で母の里・新穂村に滞在していたこともあり、北兄弟からさらに大川周明へと縁故を拡げていったように思われる。この件、さらに調査予定。

○井上裕「私論 北一輝」

○「哲学者・言論人・政治家 北れい吉

○「井戸土塀政治家本間一松の生涯

○古沢襄「北一輝 佐渡・本間人脈からみた研究」   


 
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