物語学の森 Blog版
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『精選 折口信夫』 第I巻 異郷論・祭祀論 第II巻 文学発生論・物語史論
2018-11-13 Tue 08:08


実質的な編者の長谷川政春さんから、一期二巻を拝領。ありがとうございました。『新編全集』を底本に、折口学のエッセンスを一覧できる。巻末の岡野弘彦先生のエッセイから、折口の身の回りの世話をしていた女性・矢野花子の名前を確認できた。

戦前の女性文学者と『むらさき』、そして折口信夫

池田亀鑑は、北見志保子の発言として、以下のように記していた。池田亀鑑の妻を追い払った女性、それが矢野花子。

「博士はやはり、釈超空として、そのご家庭が寂しかったように、孤独に生き、そのことを誇りにしてをられたのかもしれない」「私の家内などは、一度お留守にうかがって、留守番のお婆さんに、追払われたやうです。あの名物のお婆さんもいい人でした」「御養子の春洋さんが戦死なされたといふことは、何としても大きな打撃であつたやうです。北見さんのお説では、家庭には主婦といふものが必ずいなくてはゐけない。男所帯の先生は食事といふことをあまりに軽く見ておられたやうだ、とのことですが、たしかにさうでせう」「折口先生をしのぶ」
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『更級日記』作者の所持した『源氏物語』写本は通し番号のみで現行巻名はなかった。
2018-11-10 Sat 14:06
 『更級日記』に記された当時の『源氏物語』の形態についての私見(章段は、原岡文子校註『更級日記』角川ソフィア文庫、2003年による)

17『源氏物語』耽読
  かくのみ思くんじたるを、心も なぐさめむと、心ぐるしがりて、はは、物 がたりなどもとめて見せ給に、げに をのづからなぐさみゆく。紫のゆかりを見て、続きの見まほ しくおぼゆれど、人かたらひなども えせず。たれもいまだ都なれぬ ほどにて、え見つけず。いみじく心も となく、ゆかしくおぼゆるままに、「この 源氏の物語、一の巻よりして みな見せ給へ」と心の内にいのる。親の太秦に籠り給へるにも、こと事 なく、この事を申て、いでむままに この物がたり見はてむとおもへど、見え ず。
 いとくちおしく思なげかるるに、 をばなる人のゐ中よりのぼりたる 所にわたいたれば、「いとうつくしう、 生いなりにけり」など、あはれがり、 めづらしがりて、かへるに、「なにをかたて まつらむ、まめまめしき物は、まさなか りなむ、ゆかしくし給なるものをた てまつらむ」とて、源氏の五十餘巻、櫃 にいりながら、ざい中将、とをぎみ、 せり河、しらら、あさうづなどいふ物 がたりども、ひとふくろとりいれて、えて かへる心地のうれしさぞいみじきや。はしるはしる、わづかに見つつ、心もえず 心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、 人もまじらず、几帳の内にう ちふしてひきいでつつ見る心地、后の位もなににかはせむ。
光るの源氏の夕顔、 宇治の大将の浮舟の女君のや うにこそあらめと思ける心、まづいと はかなくあさまし。

①「紫のゆかり」は「若紫」巻説、「紫の上に関係の深い巻々」説がある。卑見・当時すでに『源氏中鏡』のようなダイジェストがあったか。『源氏物語』における「紫のゆかり」は3例

『末摘花(大島本)』  かの紫のゆかり、尋ねとりたまひて、
『若菜上(明融臨模本)』 かの紫のゆかり尋ね取りたまへりし折思し出づるに
『竹河(大島本)』おちとまり残れるが、問はず語りしおきたるは、紫のゆかりにも似ざめれど

②「一の巻」二例。「五十よ巻」の「一の巻」とある写本だったことになる。

37「浮舟の女君」夢想
…からうじ て思ひよることは、、<いみじくやむごとなく、 かたちありさま、物語にあるひかる源氏などのやうにおはせむ人を、 年にひとたびにても通はしたて まつりて浮舟の女君のやうに、山ざとに 隠し据へられて、花、紅葉、月、雪を眺めて、いと心ぼそげにて、めでたか らむ御文などを、時々まち見など こそせめ>とばかり思つゞけ、あらまし 事にもおぼえけり。むごに えわたらで、つくづくと見るに、<紫の物語に、宇治の宮のむすめ どもの事あるを、いかなる所なれば、 そこにしもすませたるならむ>と、 ゆかしく思し所ぞかし。

③ 浮舟の女君が薫によって山里に隠し据えられたのは、東屋・浮舟の二巻。
④「紫の物語」は「紫=作者」の物語。日記作者も『源氏物語』作者を「紫」と認め、これを援用した『源氏物語』の異名。 

44 初瀬詣で
<げにおか しき所かな>と思つゝ、からうじ て渡て、殿の御領所の宇治殿を入りて 見るにも、浮舟の女君の、 かゝる所にやありけむなど、まづ思いで らる

⑤初瀬詣での折に藤原頼通の別業であった宇治殿に立ち寄り、浮舟巻で、匂宮が浮舟を拉致した「隠れ家」をここに想起したことになる。ただし、実際は「時方にたばからせたまひて、「川より遠方なる人の家に率ておはせむ」と構へた」家であり、匂宮が準備が出来るまで滞在したのが、夕霧の別業、すなわち、宇治殿。日記作者としては、浮舟ゆかりの地としての「宇治殿」であったのだろう。

 これら①~⑤を勘案するに、『更級日記』に記された『源氏物語』は現行の『源氏物語』と物語内容に齟齬はない。また、光源氏に憧れ、夕顔、浮舟といった、破滅型の運命を志向する傾向がある。これも現行の『源氏物語』の物語内容の枠内である。『紫式部日記』にも『源氏の物語』とあり、これを踏襲しつつ、「紫の物語」という別名も使用。『更級日記』作者の手にした『源氏物語』写本には、通し番号のみで、「桐壺」「若紫」等の巻名のない写本であったことになる。

 以上、ご批正を乞う。

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紫式部日記絵詞「このわたり」、黒川本「このわたりに」
2018-11-08 Thu 08:21
旧森川家本『紫式部日記絵詞』(国宝 五島美術館蔵)

人よりもけにいとはつかしけにこそおはす
めりしかさか月のすんのくるを大将はおち
給へとれいのことなしひのちとせよろつよ
にてすきぬ左衛門の督あなかしこゝのわ
たり
わかむらさきや候とうかゝ給源氏□(に)
にるへき人も見え給はぬにかのうへ
はまいていかてものし給はんと
きゝゐたり」(第4段詞)

黒川本『紫式部日記』

か月のすんのくるを大将はをち給へとれい
ことならひの千とせ万代にてすきぬ左衛門
 のかみあなかしこ此のわたりわかむらさきや
さふらふとうかゝいたまふ源氏にかかるへき人
もみえ給はぬにかのうへはまいていかてものした
まはんときゝゐたり三位のすけかはらけ
とれなとあるに侍従の宰相たちて内のおとゝ
のおはすれはしもよりいてたるをみて
おとゝゑいなきしたまふ権中納言すみのま
のはしらもとによりて兵部のをもとひこし」38オ

 萩谷朴『紫式部日記全註釈』上巻、角川書店、1971年(pp.470-475)によれば、絵詞本文を優先する原則を徹底していたことが知られる。

「此のわたり」は諸本のプロバー本文に「このわたりに」となっているが、酔っ払いの呂律のまわらぬ言葉を写し取ったものとして、格助詞「に」を言い落とした崩れた会話語と見る意味で、絵詞本文を正しとする。pp.470

  拙著『紫式部と和歌の世界』では、このあたりの優先順位の「に」を取る校訂が不徹底だったことに気付く。現在継続中の社会人講義の際には訂正したい。

 なお、『源氏物語』巻名の本文史を以下に整理する。

1008年(寛弘五)11月1日 『源氏物語』おおよそ成る 浄書本(正副)、豪華本(正副)の4セットと、道長が愛娘の妍子のために作者の局から持ち出した草稿本の計5セットがあったことになる。

1021年(治安元年) 菅原孝標娘『更級日記』「をばなる人」から『源氏物語』五十よ巻を贈られる。「一の巻」、「光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやう」

1119年(元永2年)11月27日条 源師時『長秋記』、白河院と中宮璋子とのあいだで「源氏絵間(麻)紙可調進」の記事。
徳川・五島本『源氏物語絵巻』成立諸説
1120-1125 稲賀敬二・徳川義宣説
1120-1140 秋山光和・鈴木敬三説
1140-1150 小松茂美説
1170年代 詞書Ⅳ類 小松茂美説 

 徳川・五島本『源氏物語絵巻』 現存詞書巻名 「すゝむし」「ゆふきり」「みのり」 ※現存絵巻は鷹司家蔵の副本(上原説)

1156年(保元元年)  藤原(世尊寺)伊行 『源氏釈』54帖巻名の他に「桐壺 一名壺前栽」「まきはしら-さくらひと」「のりのし」
1233年(天福元年) 藤原定家『奥入』第一次・第二次 巻名確定「桐壺 一名壺前栽」
  『明月記』において、藤原定家の記した『源氏物語』巻名一覧

1226年(嘉禄2)年5月26日条 承明門院姫宮所望「紅葉賀」「未通女」「藤裏葉」三帖書進。
1230年(寛喜2)3月27日条 「桐壺」「紅葉賀」書写下命。
同年3月28日条 「桐壺」を書くこと渋る。
同年4月3日条「紅葉賀」を書終られず。
同年4月6日条 「桐壺」と「紅葉賀」進呈。
同年4月26日条 「夕顔」巻は忠明中将が分担書写したことを知る
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『紫式部日記』「我が紫」説の帰趨、そして『源氏物語』巻名の成立について
2018-11-07 Wed 10:46
 古典の日以降、制定の根拠となる『紫式部日記』の解釈が話題となっている。その「わかむらさき」解釈の帰趨についての覚え書。 

黒川本『紫式部日記』-渋谷榮一先生の翻刻による。

か月のすんのくるを大将はをち給へとれい
ことならひの千とせ万代にてすきぬ左衛門
のかみあなかしこ此のわたりわかむらさきや
さふらふとうかゝいたまふ源氏にかかるへき人
もみえ給はぬにかのうへはまいていかてものした
まはんときゝゐたり三位のすけかはらけ
とれなとあるに侍従の宰相たちて内のおとゝ
のおはすれはしもよりいてたるをみて
おとゝゑいなきしたまふ権中納言すみのま
のはしらもとによりて兵部のをもとひこし」38オ

校訂本文

 …盃の順の来るを、大将はおぢたまへど、例のことなしびの、「千歳万代」にて過ぎぬ。
 左衛門督、
 「あなかしこ、このわたりに我が紫やさぶらふ。」
と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。…

 ※傍線部本文は、『紫式部日記絵詞』によって校訂する萩谷朴説を踏襲した渋谷先生校訂本文。渋谷先生の方針は、以下の通り。
【校訂付記】
1 底本の宮内庁書陵部蔵「黒川本紫日記」は後世の写本であるため、それよりも遡る逸文資料の国宝『紫式部日記絵詞』(鎌倉期)及び伝三条実重筆『日記切』(室町期)が存在する箇所では、原則として、その本文を尊重し校訂した。
2 萩谷朴著『紫式部日記全注釈 上下』の考証を尊重し、受け入れ難い説以外は、原則として、それに従って校訂した。

 ※「わかむらさき」の渋谷先生の校訂案は「若紫」。萩谷説の詳細は、『紫式部日記全注釈』下巻、角川書店、1971年参照。なお、渋谷氏の電子データは、クレジットがあれば使用可とのことが凡例に明記されてあるが、遺憾ながら、クレジットなく公刊されている本もある由である。

  以下、「我が紫」説に言及する代表的な論考をふたつ、さらに愚見を付記する。

野口元大「源氏物語成立前後」『王朝仮名文学論攷』風間書房、2002年、初出1992年

 ここでは、「わかむらさき」について意見が分かれている。「若紫」説と「我が紫」説とである。『源氏物語』本文には、「若紫」の呼称はなく、巻名に見えるだけである。そうすると、「若紫」説では、「若紫」巻に見える女君の意味となるが、やや迂遠な気味がある。…
 この場合の公任の言動は、わたしも『源氏物語』を読んでいますよ、の意味を込めて一種の表敬訪問だったと解してよい。したがって、皮肉や無礼は彼の意図したところではなかったであろう。そういう彼の気持ちを忖度すれば、ここは次のように解釈したい。彼は親愛感から「我が紫」と呼び掛けようとしたのだが、瞬間それは相手にとっては無礼に響きかねないことに気づき、とっさに「若紫」の懸詞としてそれを緩和しようとした。具体的には「我が紫」のアクセントで、「若紫」と発音したのである。
 この「かの上」という呼び方は、この時期には、物語が「若紫」だけでなくかなり後まで、少なくとも第一部まで成立していたことを意味する。そして公任もそこまで読んでいることを当然視している口吻とも思える。こういう反撥めいた口調を弄しながらも、それを日記に書き込んでいる紫式部は、やはり晴れがましさを感ぜずにはいられなかったのだろうし、同時にこういう男性読者の見識に対しても、引けは取りたくないという思いをも強くしたことであろう。253-254頁

高橋亨「物語作者のテクストとしての紫式部日記」『源氏物語の詩学-かな物語の生成と心的遠近法』名古屋大学出版会、2007年、初出2002年

「わかむらさき」を「若紫」と解する説が一般的で、それならば、老いを意識している紫式部をからかったことにもなるが、「源氏」に似るべき人も見あたらないのに、「かの上」はどうしておられようかと、黙って聞いていたと記す。萩谷朴説のように、「我が紫」とみたほうが、公任が自分を光源氏に見立てて呼び掛けたことが、「かの上」という受け方と呼応して、より明確となる。「若紫」と「我が紫」の掛詞とみることも可能であろう。527頁

上原作和・廣田收校注訳『紫式部と和歌の世界-一冊で読む紫式部家集-新訂版』武蔵野書院、2012年
○わが紫-『全注釈』「我が紫」に従う。「若紫」は巻名に牽制されたものであろう。巻名の成立はこれを裏付ける資料が『源氏物語絵巻』を遡れない。171頁

 ちなみに『源氏物語』の最も早い他者の享受は菅原孝標娘の『更級日記』治安元年(1021)の記事であり、ここでは「一の巻」、「光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやう」としかない。つまり、現存の巻名ではなく、巻の通し番号のついた写本群であったことになる。したがって、「若紫」支持派の諸氏は、まず、巻名が寛弘五年十一月朔日までに作者によって命名されていたことを証明することが必要となるはずだ。

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三島由紀夫『蘭陵王』と龍笛
2018-11-02 Fri 06:20
『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』予告編


 先日のシンポジュウムで『教訓抄』に伝わる『蘭陵王』の伝承に興味を抱いたので、関連する文献を渉猟。三島由紀夫最後の短編である『蘭陵王』は、自衛隊体験入隊の一日を描く。楯の会四期生の「S」は横笛の奏者。8月20日、富士での軍事演習を終えた夏の夜、兵舎で「S」の奏でる「蘭陵王」に耳を傾ける一人称の「私」の詩想が流麗と綴られる。
 若松幸二監督の映画でも、「S(役名は本名)」が龍笛「蘭陵王」を奏で、三島と隊員達がこれを聞く場面がある(雅楽演奏は日本雅楽会)。三島由紀夫の描いた龍笛「蘭陵王」の「音の美」については、私も物語研究を通じて知己を得た作中人物「S」氏ご自身が、小説本文と楽理とを詳細に分析し、「三島氏が、龍笛の音に鷲づかみされたことは疑う余地がない」と述べている。「S」氏は天象・月齢にも詳しく、論文のご批判を頂戴したこともあった。これを御覧になっているかも知れないが、ご指導の先生も出版を勧めておられることだし、ぜひ御本にまとめて頂きたいところだ。

ダウンロード
原豊二・劉暁峰編『東アジアの音楽文化―物語と交流と』 (アジア遊学170) 、勉誠出版、2014年。
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